37章. 《TRAP》
闇を好む人間がいる。
闇にしか、生きられない人間がいる。
もがき、苦しみながら――
それでも、生きようとする人間もいる。
そして、
そのすべてが交わる場所で、
光に晒される。
夜の港は、光が多いぶん、影もまた深かった。
クレーンの照明はコンテナの角だけを白く照らし、
そのあいだに落ちる影は、昼よりも濃い。
潮の匂い。
油の匂い。
遠くで鳴る貨物船の低い汽笛。
人が何人いても、
ここでは簡単に消える。
⸻
今回の作戦は、最初から殺すためのものではなかった。
神代レオンを――
生きたまま捕る。
それが目的だった。
千堂さんは、そのために二人の男を呼んでいた。
東。
桐谷。
どちらも千堂さんの元部下で、
今は現役のSAT隊員だと聞かされた。
本来なら、こんな仕事に関わる人間じゃない。
それでも来た。
千堂さんへの義理と、莉花が積んだ金のために。
東は無口だった。
四十代半ばくらい。
目つきが鋭く、肩幅が広い。
立っているだけで、壁みたいな圧があった。
桐谷は東より若かった。
三十代前半。
痩せた体に無駄がなく、
銃を握る手つきが、あまりにも自然だった。
二人とも、今は港湾作業員の服の上に防弾ベストを隠している。
「本当にやるんですか」
桐谷が小さく言った。
千堂さんは、コンテナの影から港を見たまま答える。
「レオンは捕まえる」
「殺すなよ」
東が低く言った。
「相手は裏の人間だが、所詮は民間人」
「それは違うぞ」
千堂が続けて言う。
「レオンは俺が全てを教えた」
「侮ればこっちがやられる」
桐谷は静かに言った。
「肝に銘じます」
千堂さんは短く言った。
「生きていれば、司法に任せられる」
それだけだった。
声に迷いはなかった。
吉野のスマートフォンは、すでに回収されていた。
千堂さんが、短く言う。
「レオンにかけろ」
吉野は動かなかった。
指先だけが、わずかに震えている。
「……かけろ」
「もう一度、仲間に戻りたいと言え」
押し殺した声だった。
吉野は、ゆっくりと息を吐いた。
それから、震える指で番号を押す。
発信音。
一回。
二回。
三回。
通話が繋がる。
「……吉野か」
スピーカーから、
地を這うような声が聞こえる。
神代レオン。
吉野の喉が鳴る。
「……俺だ」
間を置かず、レオンが言う。
「位置は掴んでいる」
「生きていることもな」
吉野の呼吸が乱れる。
「……頼む」
「もう一度、仲間に――」
言葉を遮るように、レオンが続けた。
「いいぞ、なら、話は早い」
「そっちに迎えに行く」
「正確な位置を送ってくれ」
通話が切れる。
吉野は、そのまま動かなかった。
スマートフォンを握ったまま、
視線だけが落ちていく。
千堂さんが言う。
「来るぞ」
⸻
配置は、何度も組み直されていた。
倉庫前の明かり。
コンテナの死角。
逃走経路。
車両の位置。
拘束具。
閃光弾。
吉野は、千堂さんと僕の中間に立たされていた。
亮平は少し離れたコンテナの影にいた。
狙撃ではなく、熱源監視と後方支援。
今回の役割はそこだった。
遠目には一人に見える。
だが実際は、誰かが飛び出せばすぐ届く距離だ。
「奴は最初から、殺しにくる」
「そういう奴だ」
「安心しろ、お前の命は守ってやる」
それでも、吉野の顔色は悪かった。
当然だ。
自分が囮だと知っている。
それでも逃げないのは
もう、終わりだと知っているからだ。
「……仲間に戻してくれるんじゃないか」
吉野が言った。
千堂さんが答える。
「ありえん」
「お前を飼っていてもろくなことはない」
「間違いなくお前を殺す」
吉野は乾いた笑いを漏らした。
「ろくな人生じゃなかったな」
海風が吹く。
上着の裾が揺れた。
誰も答えない。
僕は端末を見ていた。
地図。
搬入記録。
監視カメラの死角。
港内の作業車の移動ログ。
現場に来てしまった以上、
自分にできることをやるしかなかった。
「……三番倉庫の裏、動きました」
小さな声で言う。
亮平が振り返る。
「何人?」
「二人。見張りだと思う」
千堂さんは視線を動かさない。
「レオンは最後に来る」
その声は低かった。
確信している声だった。
端末の画面に、短い通知が出た。
未登録車両 接近
心臓が跳ねた。
「来る」
自分でも驚くほど小さな声だった。
「東、周りこんで、車にGPS仕込んでくれ」
「了解」
桐谷が腰を落とす。
東が銃のグリップに指をかける。
亮平が呼吸を止める。
千堂さんが、ほんの少しだけ顎を引いた。
空気が変わる。
凍るように。
次の瞬間だった。
パンッ――
鈍い音がした。
防弾が弾いた。
吉野の動きが止まる。
パンッ――
寸分違わず、同じ場所。
今度は、止まらない。
血が、遅れて溢れた。
吉野の身体が揺れた。
そのまま膝をつく。
「……っ」
吉野は自分の胸を見た。
何が起きたのか、理解が追いつかない顔だった。
――その瞬間。
僕は走っていた。
考えるより先に、体が動いていた。
吉野に向かって。
間に入るために。
助けられると思った。
届く距離だった。
だが――
レオンは、想定よりずっと近かった。
暗がりの奥から撃ってくるはずの男が、
もうこちらの捕獲圏のすぐ手前まで踏み込んでいた。
黒いジャケット。
細い目。
白い肌。
神代レオン。
まるで、最初からそこに立っていたみたいな顔で、
こちらを見ていた。
「久しぶりだな、千堂さん」
「何故あなたがいる?」
「まさかそんな奴を助けるつもりか?」
その声は軽い。
遊びに来たみたいな声だった。
「今だ」
千堂さんの声。
一斉に動く。
東が倉庫側の敵を確保。
手錠をはめる。
亮平が横に走る。
千堂さんが中央から詰める。
囲った。
そう思った。
だがレオンは止まらなかった。
一歩も引かない。
むしろ、こちらへ踏み込んできた。
「……近すぎる」
千堂さんが低く言った。
次の瞬間。
レオンの左手から、小さな塊が落ちた。
金属音。
――手榴弾。
「伏せろ!!」
閃光。
爆音。
衝撃波が肺を潰す。
白く弾ける視界。
耳が壊れる。
僕はその中で、
吉野に飛びついていた。
抱え込む。
庇う。
頭に何か破片が当たった。
吉野の身体を地面に押し倒す。
パンッ――
爆発の中でも分かる。
銃声だった。
吉野の身体が、腕の中で震えた。
胸に、もう一つ穴が開いていた。
遅かった。
パンッ――
もう一発。
今度は僕の腹だった。
焼けるような熱が入る。
息が止まる。
さらに次の瞬間、
頭の横を何かがかすめた。
鈍い衝撃。
視界が揺れる。
音が遠ざかる。
世界が歪む。
吉野の目が、僕を見ていた。
何か言おうとしたのか、唇だけが震える。
声は出ない。
そのまま、力が抜けた。
「悠輝!」
「伏せろ!」
「右だ!」
「撃て!」
「こっちにこい」
東と桐谷の声が飛ぶ。
銃声が重なる。
東の二連射。
亮平の荒い反撃。
だがレオンは、煙の中にいた。
ほとんど無傷で。
「雑だな」
息も乱れていなかった。
笑っていた。
東が位置を変える。
桐谷が倉庫側へ詰める。
亮平が横から体当たりに入る。
三人の影が一瞬だけ絡む。
レオンは亮平の腕を払った。
その動きが異常に速い。
亮平の体が回転してコンテナに叩きつけられる。
それでも倒れない。
「……っ、化け物が」
亮平が唸る。
「褒め言葉か?」
僕は地面に倒れていた。
腹が熱い。
でも、手は冷たい。
血が広がっていくのが見えた。
黒い地面に、
もっと黒く見えた。
息を吸おうとしても、うまく入ってこない。
レオンが一歩下がる。
そして、吉野を見る。
倒れている。
動かない。
確認するように、ほんの一瞬だけ見下ろす。
それで十分だった。
「目的は達した」
小さく笑う。
「逃がすと思うか」
千堂さんが低く言う。
レオンは笑った。
「逃げるさ」
「もう、時代遅れのあなたから学ぶことはない」
「部下ももう少しましなのを連れた方がいいよ」
レオンは笑う。
「まだ終わってない」
千堂が身構えた。
次の瞬間、
足元にもう一つ何かが転がった。
閃光。
爆音。
白く潰れる視界。
耳鳴り。
煙。
次に見えた時には、
レオンの姿は消えていた。
「クソッ!」
亮平が叫ぶ。
千堂さんの一言が落ちた。
「桐谷、……追うぞ」
短く言う。
亮平が振り向く。
「千堂さん、悠輝が――」
「すまん、任せる」
即答だった。
千堂さんは一度だけ、僕を見た。
生きているかどうかを確認する目。
「頼む……死なせるな」
その声に、わずかに焦りを感じた。
それだけ言って、
闇へ消えていった。
レオンの後を追って。
「悠輝!」
亮平の声が遠い。
腹を押さえられる。
激痛で息が切れた。
「……亮平」
「喋るな!」
東は肩を押さえながらも、まだ銃を手放していない。
亮平が端末を開く。
手が震えている。
東が低く言う。
「救急だ。重症だ。ヘリを要請しろ」
亮平がすぐに通信を開く。
「……シンディー」
短く言う。
「悠輝が撃たれた」
「銃創。頭部もやられてる。出血が多い」
「このままじゃ間に合わない」
わずかな沈黙。
すぐに返答が来る。
「位置送って」
「今」
亮平が即座に共有する。
「コロンビアの救急は125でしょ」
「私がかける」
声は迷いがなかった。
「医療搬送ヘリを手配する」
電話が切れる。
東が言う。
「間に合うか」
亮平は短く答えた。
「間に合ってくれ」
その声が、どんどん遠くなっていく。
僕は空を見た。
———
港の上の夜空は、
どこまでも静かだった。
なのに、
遠くで低い音がしていた。
ヘリの音だと、ぼんやり分かった。
亮平が叫ぶ。
「来たぞ」
「悠輝、もう少しだ」
低い回転音が、夜を裂いた。
最初は遠く。
だが一秒ごとに、確実に近づいてくる。
風が変わる。
コンテナの隙間を抜けて、
強いダウンウォッシュが地面の埃と血を巻き上げた。
東が片手でライトを振る。
「こっちだ!」
亮平は僕の身体を押さえていた。
「頑張れ」
腹に圧がかかる。
焼けるような痛み。
息が、うまく吸えない。
ヘリの影が、地面を滑る。
降下。
着地。
「搬送!」
ドアが開く。
医療クルーが飛び出してくる。
「銃創、腹部、頭部も!」
亮平が叫ぶ。
「出血多量!」
手際が早い。
止血。
確認。
担架。
僕の身体が持ち上げられる。
視界が揺れる。
暗い空。
白い光。
音が、遠い。
「まだ大丈夫だ、聞こえるか!」
誰かが叫んでいる。
担架が機内に滑り込む。
固定。
ベルトが締まる。
亮平の顔が、一瞬だけ見えた。
何か言っている。
聞こえない。
――まだ、死ねない。
もう一度、会いたい。
そう思った。
そのまま、意識が落ちた。
まどろむ意識の中で、
思い出す。
彼女の顔を。
それが、莉花なのか。
紗希なのか。
もう、分からない。
ただ――
会いたい。




