32章《別れの薄暮、最後のキス》
愛は、いつも正しい形をしているわけじゃない。
間違いの中で生まれて、
間違いのまま、誰かを守ることもある。
それでも――
そのすべてを愛と呼ぶのだと思う。
季節だけが、先に進んでいた。
色々なものを、置き去りにして。
薄暮の空に、夕星がひとつ灯っていた。
児童館の裏庭には、
まだ子どもたちの声の余韻が残っている。
僕はテーブルを片付けながら、
ふと手を止めた。
鍋の底に残ったカレーを
洗い流す水の音が聞こえる。
今日の子ども食堂は、もう終わりだった。
職員が、
「また来週な」と笑って帰っていく。
僕は、ひとり残った。
静かだった。
――逃げているのかもしれない。
そう思った。
あの日から、
僕は莉花のところへ戻っていない。
戻る勇気が、なかった。
⸻
全ての影が消えるころ。
背後から、足音がした。
振り向く。
紗希だとすぐにわかった。
「……紗希」
彼女は、少しだけ笑った。
紗希は、少し伸びた髪を後ろで束ねていた。
以前より、少しだけ大人びて見えた。
「久しぶり」
声は、いつも通りだった。
でも、
その笑顔の奥にあるものは、
前とは違っていた。
目を逸らし、地面に落ちている小石を見つめて、僕は言った。
「どうして、ここに?」
紗希は、肩をすくめる。
「悠輝がここにいるって、亮平に聞いたから」
少し沈黙が流れる。
風が吹いて、
テーブルクロスが揺れた。
紗希が言う。
「莉花」
その名前を聞いた瞬間、
胸の奥が締めつけられた。
「……あんな別れ方したけど」
紗希は、ゆっくり続ける。
「莉花のせいじゃない」
「あの子が付き合いだしてからは」
「……違う」
紗希は、少しだけ息を吐いた。
「……私のせい」
「ちゃんと拒めばよかった」
「あのとき」
「止められたのに」
「……ごめんなさい」
紗希は顔を上げる。
「悠輝」
「莉花を、助けて」
「一人にしないで」
「あのままだと」
紗希は小さく言った。
「第二の藤堂高雄になる」
僕は、何も言えなかった。
⸻
「悠輝」
紗希が僕を見る。
「支えてあげて」
僕は、顔を伏せた。
「……僕は」
声が震える。
「本当にどうしていいかわからない」
「紗希にも、本当に悪いことをした」
喉が詰まる。
「莉花と間違えて抱くなんて」
「最低だ」
紗希は、すぐに首を振った。
「ううん」
「いいよ」
静かな声だった。
「私も悪い」
「本当に嫌なら」
少しだけ笑う。
「もっと抵抗できた」
「でもしなかった」
「好きだから」
僕は顔を上げた。
紗希は、もう泣いていなかった。
紗希が、僕を見つめている。
「悠輝」
その声は、
昔と同じだった。
「一度だけでいい」
「紗希として、キスして」
僕は、ゆっくり近づいた。
紗希は逃げない。
ただ立っている。
涙が、こぼれていた。
僕は彼女を抱きしめた。
とても軽かった。
壊れそうだった。
石鹸の匂いがした。
胸の奥が痛む。
どうしようもないほど。
僕は泣いていた。
紗希も、泣いていた。
そして――
唇が触れた。
短いキスだった。
優しい。
とても優しいキスだった。
唇が離れる。
「……」
紗希は、少しだけ笑った。
「ありがとう」
「やっと、紗希としてできた」
声は震えていた。
でも、
その顔はどこか晴れていた。
「もう、大丈夫」
そう言うと、
紗希は一歩下がる。
「子ども、産まれた」
僕はどうしても聞きたかった。
「……」
僕は、息を止めた。
「元気にしてる?」
自分でも、情けないくらい小さな声だった。
紗希は、何も答えなかった。
ただ、静かに首を振る。
「会わせないし、何も教えたくない」
「知れば、あなたを頼ることにもなる」
少しだけ視線を落とす。
「忘れて……」
「この子は、私が大切に育てる」
「……あなたの子じゃないから」
そして、最後にだけ言う。
「間違ってできた子なんて、言えないでしょう」
一度だけ、僕を見る。
僕は、拳を強く握り締めた。
何も言えなかった。
「悠輝が愛したのは、莉花だから」
世界が、静かになった。
これが――
僕に向けられた、愛だった気がついた。
⸻
「莉花をお願い」
「私はもう大丈夫」
そう言って、続ける。
「だから莉花を」
「助けて」
僕は何も言えなかった。
紗希は、遠くを見る。
夕焼けが、窓ガラスに映っている。
「私は」
小さく言う。
「莉花のお父さんのそばで支える」
僕は驚いた。
「社長を?」
紗希は頷く。
「彼も」
少し間を置く。
「本当は可哀想な人」
風が吹いた。
紗希の前髪が揺れる。
沈黙が落ちる。
僕は頷いた。
言葉は出なかった。
紗希は振り返らない。
そのまま歩いていく。
夕焼けの時の中へ。
僕は、しばらく動けなかった。
胸の奥が、まだ痛んでいた。
でも――
そこにあったのは、母親の強さだった。
僕は、空を見上げた。
紗希だけが、時の流れの中を進んでいた。
気づけば僕は、また殻の中に戻っている。
でも――
その殻を砕くのも、いつも紗希だった。
だから、今度は。
僕が、踏み出す。
強くなって、
守らなければならないものが、ある。
夜だった。
僕は、少しだけ息を整えて、
千堂さんに電話をかけた。
コール音が、やけに長く感じる。
「……はい」
低い声だった。
「千堂さん」
一瞬、言葉が詰まる。
それでも、続けた。
「……僕を、もう一度鍛え直してほしい」
沈黙。
「理由は」
短い問いだった。
僕は、息を吸う。
「この前は、不用意に刺された」
「あれじゃ、誰も守れない」
「……だから、鍛え直してほしい」
しばらく、何も返ってこなかった。
切れたのかと思った、そのとき。
「遅えな」
静かな声だった。
でも、はっきりしていた。
「明日、来い」
それだけだった。
通話が切れる。
夜の空気が、少しだけ冷たかった。
溢れてしまったものは、
もう戻らない。
どれだけ願っても、
どれだけ後悔しても。
それでも人は、
その先で選び続ける。
失ったものの上に、立ちながら。




