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Scrambled Egg  作者: 読まれる前提
《たまごの殻》

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31章 《Scrambled Egg》

人は、

見ているようで見ていない。


触れているようで、

本当は、触れていない。


だから気づかない。


それが“誰”だったのかを。

[悠輝]


静かな夕方だった。


キッチンには柔らかな灯りが落ちている。


日山ホールディングス

特別対策室

役員会議用資料。


メールのログ。

資金の流れ。

東南アジアルートの構造図。


味噌の匂いと食材、会社を崩す資料が

同じテーブルに並んでいた。


僕と莉花は、その前で夕食の準備をしていた。


包丁の音。

鍋の湯気。


どこにでもある、普通の時間。


でも二人にとっては、とても大切な時間だった。


莉花が慣れない手つきで野菜を刻みながら、ぽつりと言った。


「東南アジアルート、ぜんぜん壊れてなかった」


その言葉に、僕は鍋をかき混ぜる手を止めた。


「吉野の話?」


莉花は頷く。


「壊滅したように見せかけただけ」


「父の指示だった」


沈黙。


鍋の湯気だけが上がる。


僕は、ほとんど考えるより先に口にしていた。


「……じゃあ、全部捨てて、僕と暮らしていかない?」


「父を止めたらね、私にはその責任がある」

莉花が続けた。


「役員会議で暴露するしかない」


僕はテーブルの資料を見る。


「吉野課長は?」


「会議で証言するのはいやだって」


莉花は苦笑する。


「匿名ならいいけど、できれば捕まりたくないって」


僕は小さく息を吐いた。


「じゃあ」


「以前のメールのやり取りを出すしかないね」


莉花は頷く。


「うん」


「吉野の証言と合わせれば辻褄は合う」


少し沈黙。


僕が言う。


「……莉花」


「それ出したら」


「会社、かなりダメージ受けるよ」


莉花は包丁を置いた。


「しょうがない」


静かな声だった。


「でも必ず立ち直るわ」


鍋をかき混ぜる。


「日山には優れた人もたくさんいる」


少し間を置く。


「でも父が社長になれば」


莉花は言った。


「イエスマンしか残らない」


沈黙。


僕がスプーンを取る。


「莉花、それ味見して」


莉花は笑う。


「逆でしょ」


スプーンを差し出す。


僕は少し身を乗り出して口を開く。


「どう?」


「……うん、うまい」


莉花は満足そうに笑う。


笑ったまま、距離が縮まる。


キスをした。


短く、自然なキスだった。


莉花が笑う。


「もう、手、汚れてるのに」


僕も笑う。


「莉花もでしょ」


莉花はコンロの前に戻った。


ボウルの中の卵をフォークで軽く混ぜる。


フライパンを火にかける。


バターが溶けて、小さな音を立てた。


莉花は溶いた卵を、ゆっくりフライパンに流し込む。


黄色が広がる。


そのとき――


チャイムが鳴った。


二人は顔を見合わせる。


「こんな時間に?」


僕が手を拭きながら玄関へ向かう。


ドアを開けた。


そこに立っていたのは――


莉花だった。


「……莉花?」


驚いて言葉が続かない。


莉花は静かに笑った。


その瞬間、ふっと石鹸の匂いがした。


莉花の香水とは違う、

どこか懐かしい匂いだった。


「急に来て、ごめんね」


その声に、莉花が顔を出す。


「莉花が二人?」


そして――


莉花の視線が止まった。


紗希のお腹だった。


沈黙。


「……どういうこと?」


莉花が言う。


紗希はゆっくり部屋に入る。


そのとき、机の上の資料に視線が止まった。


役員会議用資料。

特別対策室。

東南アジアルート。


――役員会議。


紗希は何も言わない。


ただ一度だけ目で確認した。


そしてバッグから母子手帳を取り出した。


テーブルの上に置く。


静かに言った。


「悠輝を、私にちょうだい」


莉花の顔が強張る。


「……何言ってるの?」


紗希は悠輝を見る。


まっすぐに。


「お願い」


母子手帳を開く。


父親の欄を指でなぞる。


「ここに」


そして言った。


「悠輝の名前を書きたい」


部屋の空気が止まった。


僕は戸惑いながら言った。


「……紗希、それって」


紗希は静かに答える。


「お腹の子の父親は、あなたよ」


沈黙。


莉花が僕を見る。


僕も紗希を見る。


理解が追いつかない。


莉花が言う。

「……いったい、どういうこと?」


紗希は小さく笑った。


「簡単なことよ」


「悠輝が、私を抱いたの」


静かな声だった。


「対策室でのこと、忘れたの?」


僕は息を止めた。


「私、だめって言ったよね」


「……待って」


喉がうまく動かない。


「それは……莉花じゃ、なかったのか」


紗希は肩をすくめた。


「私はあそこで、藤堂家のために動いてた」


「誰にも気づかれないように」


少しだけ目を伏せる。


「別に、悠輝を責めたいわけじゃないの」


「私も……悠輝のこと、好きだったから」


「強くは拒めなかった」


沈黙。


「もし子供ができていなかったら、たぶん誰にも言わなかった」


母子手帳に手を置く。


「でも、できたから」


「もう、私だけの問題じゃない」


「もう、なかったことにはできない」


僕は何も言えない。


紗希は少しだけ笑った。


「抱いたら、気づくと思ってた」


「でも……そんなところまで似てるなんて、私も思わなかった」


一歩、近づく。


「悠輝、最後まで気づかなかったんだもん」


「今日は莉花の真似してきたの」

紗希は自分の顔を指した。


「この顔だったら区別つかないでしょう」


少しだけ首を傾ける。


「母同士が姉妹だから」


「昔から、そっくりな従兄弟だって言われてきたよね」


「……だから」


小さく笑う。


「間違えるのも、無理ないよね」


「だったら」


「私でも、いいじゃない」


母子手帳を閉じる。


「私には、もうこの子がいるの」


そして静かに言った。


「この子には」


「父親が必要だから」


僕は、どうしていいのかわからなかった。


「……でも」


紗希を見る。


莉花を見る。


「僕が好きなのは……」


言葉が詰まる。


それでも言った。


「莉花だ」


紗希は少しだけ笑った。


「そうよね」


母子手帳を静かに閉じる。


「悠輝が父親になりたくないなら、それでもいい」


僕と莉花をそれぞれ見る。


「無理なら、私が一人で育てる」


そして言った。


「今、決めて」


沈黙。


誰も動かない。


僕は二人を見ている。


紗希は静かに言った。

「悠輝……」


僕は相槌もできない。


紗希は少し首を傾けた。


「悠輝、覚えてる?」


「最初に私に会った日」


「……」


「階段で、女の子が転んだでしょう」


僕はあの時のことを思い出す。


紗希は続けた。


「あの日、階段で転んだ女は――」


「……」


「莉花じゃない」


沈黙。


そして、静かに言った。


「あれは」


ゆっくり。


「私だった」


部屋の空気が凍った。


莉花は戸惑っていた。


沈黙。


そのとき――


紗希は突然手を伸ばした。


莉花の髪を掴む。


「なに――」

莉花の声は、ほとんど悲鳴だった。


次の瞬間。


ウイッグを無理やり引き剥がした。


床に落ちる。


同じ顔。


完全に同じ顔。


僕は言葉を失う。


紗希はウイッグを拾い上げた。


そして、それを僕に差し出した。


「悠輝、莉花を見て」


少し笑う。


「もう、見分けがつかないでしょう」


「これ、なんでかわかる?」


沈黙。


紗希は静かに言った。


「私は――莉花のGhostをしてたの」


僕は何を言っているのか、理解できない。


紗希は続ける。


「会社にいる時、たまに入れ替わってた」


「一年以上前から」


「気づかなかったでしょう」


「……」


「あなたの隣にいたのが、

いつも莉花だったとは限らないの」


莉花は黙っている。


紗希は肩をすくめる。


「莉花は対策室の仕事を優先してたから、私がちょくちょく会社に行ってた」


一歩近づく。


僕を見る。


「悠輝と付き合うようになってからは、頼まれなくなったけどね」


沈黙。


紗希は言う。


「悠輝が、莉花に“浅学短才”なんて名前をつけた理由」


「やっと、わかったでしょう」


紗希は続ける。


「仕事も、話も、全然辻褄が合わない時あったでしょう」


「入れ替わったばかりじゃ、

すぐには理解できないのよ」


静かな声だった。


そして――


僕を見つめる。


「ねえ、悠輝」


一歩近づく。


「あなたが好きになったのは」


沈黙。


「本当に――」


ゆっくり言う。


「莉花?」


紗希は、自分の腹に手を置いた。


「今、違うのはこのお腹だけよ」


静かな声だった。


そしてもう一度言う。


「だから聞いてるの」


一歩近づく。


「悠輝」


沈黙。


「あなたは」


ゆっくり。


「誰に恋をしたの?」


その瞬間。


カラン。


小さな金属音だった。


莉花の手から、フライパンが落ちた。


床に黄色いものが広がる。


まだ火にかける前の、


溶いた卵だった。


誰も動かない。


卵はゆっくり床を流れていく。


混ざったまま、

もう元には戻らない。


莉花が初めて口を開いた。


「……紗希」


声が震えていた。


誰も動かなかった。


僕は二人の顔を見ている。


莉花。


紗希。


同じ顔。


頭の中が追いつかない。


僕は無意識に、ゆっくり首を振った。


「……待って」


声がかすれていた。


「何が……本当かわからない」


沈黙。


誰も答えない。


僕は目を閉じた。


過去を振り返っても、

あれが莉花だったのか、

紗希だったのか、

もうわからなかった。


「ごめん」


小さく言った。


「……少し、

一人にしてほしい」


そのまま玄関へ向かう。


ドアを開き、そのまま出ていった。



[紗希]


残された部屋は、静まり返っていた。


私達はしばらく、その場から動けなかった。


莉花は、床に広がった卵を見ていた。


混ざった黄色。


戻らない。


その瞬間。


膝の力が抜けたようだ。


莉花はその場に崩れ落ちた。


「……うそ」


声を震わせ、泣いていた。



私も動けなかった。


しばらく莉花を見ていた。


何も言わない。


声もかけない。


私は静かに母子手帳を拾い上げた。


バッグに入れる。


もう決めていた。


この子は――


私が、一人で育てる。


私は振り返らない。


そのままドアへ向かった。


静かに家を出る。



[莉花]


部屋には


私の泣き声だけが残った。


静かな夕方だった。


でもその瞬間、


二人の時間は、


完全に壊れた。


床に転がった、フライパン。


床に広がった、たまご。

壊れたものは、戻らない。


そして、

生まれてくるものも、

もう消せない。


それだけだ。

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