73:祝福の奇蹟
結婚式の最中、俺は何度も宙を舞いながら、生神女が微笑むイコンがかすむのを見た。
そのたびに神父は目を閉じ、静かに十字を切る。
「……神よ、どうかこの夫婦に御加護を……」
俺の意識が遠のくなか、聖歌隊の歌声はどこまでも澄み渡っていた。
辻馬車の御者は、涙を流しながら十字を切りまくっている。
「神よ……なんと素晴らしい光景でしょう……」
いや、お前、俺たちの結婚式を何度目撃すれば気が済むんだよ。
神父は深いため息をつきながら、儀式を続けた。
「では、新郎新婦よ……」
俺とナスターシャ・フィリポヴナは、互いに向き合った。
ナスターシャ・フィリポヴナの瞳には、かつての悲しみも、迷いもなかった。
そこには、はっきりとした――**「意志」**があった。
公爵にも、ロゴージンにも、誰にも渡せなかったもの。
かつて彼女は“赦される”ことで潰れそうになった。
“救ってあげる”という手に怯え、すべてを投げ捨てて死に向かった。
だけど今、彼女は自分の足で、ここに立っている。
そして――
「……私は今、本当に、自分の意志で、幸せよ」
そう言って、彼女は微笑み、俺に――キスをした。
神父は、ふっと息を整え、静かに祈りを捧げた。
「……この結婚に、神の祝福を」
その瞬間――
朝焼けの光が、大聖堂の巨大な円柱の間から差し込み、俺たちを包み込んだ。
いや、違う。これはただの朝日じゃない。
――これは、奇蹟だ。
神父が、驚きと畏敬の入り混じった声で囁く。
「……カザンの生神女よ……あなたは、彼らをも救われるのですか……?」
ナスターシャ・フィリポヴナが、ゆっくりと目を上げる。
カザンの生神女のイコン。
それは、ロシア正教において最も崇敬される聖母の姿。
1612年、ポーランド軍に蹂躙されたモスクワを救った民兵たちは、
このイコンを掲げて進軍した。
ナポレオン戦争のときも、
ロシア中の人々がこのイコンの前で祈り、祖国を守り抜いた。
戦火の中で、失われた尊厳を取り戻すために――
この生神女は、いつも“見捨てられた人々”の側にいた。
そのイコンが今、ナスターシャ・フィリポヴナと、俺たちを見下ろしている。
神父が震える声でつぶやいた。
「これは……神の御業です」
静寂の中、大聖堂の奥から、修道士たちの聖歌が響く。
「常に福にして全く玷なき生神女、我が神の母なる爾を讃美するは真に当れり〜」
ナスターシャ・フィリポヴナが目を細め、ぽつりと呟いた。
「……神様も、私たちを見ているのね?」
俺は、ナスターシャの手を握り返す。
「もう誰にも、お前を“罪”の中に閉じ込めさせやしない」
そう言った俺の言葉に、ナスターシャ・フィリポヴナは静かに頷いた。
その瞬間、カザンの生神女のイコンが、ほんのわずかに光った――ような気がした。
神父はわずかに顔を上げ、イコンを一瞥し、静かに微笑む。
俺は、ふと思った。
「……やはり、そうだったのかも……」
「転生の“女神”――あれは、あなただったのですね」
まあ、生神女が、現代人の俺にもわかりやすい姿で現れるなら、
多少、ソーシャルゲーム風の衣装でも……慈悲ゆえ、ということだろう。
神父は深く頷き、もう何も言うまいという顔で黙った。
しかし、最後にそっと言葉を添える。
「……まあ、無理にとは言いませんが、祈る日が一日でも多ければ、きっと“上の方”も喜ばれるでしょうね」
神の奇蹟に立ち会ってなお、信仰の基本を忘れない。
さすがはカザン大聖堂の神父だった。
これで、すべてが終わった。
俺の異世界転生は――ちゃんと完結したらしい。
ナスターシャ・フィリポヴナは、俺の手をしっかりと握りながら、誓いの言葉を終えた。
神父はようやく安堵の表情を浮かべ、最後の祝福を告げる。
「……では、これにて結婚の誓いは成立しました」
「二度目だけどな!!」
思わずツッコミを入れたが、誰も気にしていない。
……ああ。
これでいい。
俺はナスターシャ・フィリポヴナを救い、ナスターシャは俺を救った。
そしてこの物語は、ようやくここで幕を閉じ――
「あ、そうだ!!!」
俺は突然、はっとして叫ぶ。
「井出!!!」
ナスターシャ・フィリポヴナが不思議そうに俺を見つめる。
「……誰?」
「あ、いや……その……」
俺は深く反省した。
「井出、飲み代踏み倒してゴメン!!!!!」
きっと、現世のどこかで、井出が今頃「は?」って言ってるに違いない。
俺は天を仰ぎ、静かに十字を切った。




