72:再びの結婚式
俺は、もはや立ち上がる気力もなく、崩れかけた床に転がったまま天井を見つめていた。
ナスターシャ・フィリポヴナが俺の隣にしゃがみ込み、満足げに微笑んでいる。
「……甘いわね」
「……な、なにが……」
「私の夫になるってことは、これくらい耐えられないとダメでしょ?」
「そ、そんなぁ……」
ナスターシャは妖艶な笑みを浮かべ、そっと手を差し伸べる。
「さあ、立ちなさい、タカシ」
俺は、震える手でその手を掴んだ。
「……俺たち、結婚するんだよな?」
ナスターシャはにっこりと微笑み――
「もちろん」
そして、俺をもう一度、投げた。
「ナスターシャ・フィリポヴナ流・誓約再確認投げ(Клятвенный Переброс)!!!!!」
「ぬおおおおおおおおお!!!!?」
ドガァァァァァン!!!
背中が床に叩きつけられ、視界がぐるぐる回る。
ナスターシャは、俺を見下ろしながら、ゆっくりと語り始めた。
「……私は、運命を切り拓く」
「ナスターシャ・フィリポヴナ流・運命打破スープレックス(Разрушительный Суплекс Судьбы)!!!!!」
「ぎゃあああああああああ!!!!!?」
視界が宙を舞い、脳が揺れる。
「私は、この作品に背負わされた運命に縛られるつもりはない……!」
「ナスターシャ・フィリポヴナ流・悲劇拒絶バックドロップ(Назадный Бросок Отрицания Трагедии)!!!!!」
「ぐぼおおおおおおお!!!!!!」
砕ける床。もはや原形を留めていない。
俺は痙攣しながら横たわる。
「だから……」
ナスターシャ・フィリポヴナは、美しく微笑んだ。
「あなたも、覚悟してね?」
俺は涙目になりながら、震える手を挙げた。
「ま、待っ――」
「ナスターシャ・フィリポヴナ流・未来開拓ジャーマン(Будущее Созидающий Немецкий Суплекс)!!!!!」
ドガァァァァァァァァン!!!!
……もう、動けない。
ナスターシャ・フィリポヴナは、倒れた俺を見下ろしながら、満足げに息を整えた。
「ふぅ……これで、ようやく物語を超えられたわ」
ぼろぼろの俺を放置し、ナスターシャ・フィリポヴナは堂々と部屋を出る。
「さあ、タカシ」
「……は、はい……」
「結婚式よ」
俺は、震える手を伸ばし――
「もう、好きにしてくれ……」
というわけで、俺たちは夜のペテルブルクを歩き、以前、無理やり結婚式を挙げたカザン大聖堂に向かっていた。
ナスターシャ・フィリポヴナに腕を引かれながら、俺はもう自分の運命を受け入れるしかないと悟っていた。
途中で辻馬車を止めると――
「……ん?」
見覚えのある御者だった。
「お、お前……!!!」
「おや、旦那……まさかまた、結婚式ですかい?」
「うぐ……」
御者の顔が、なんとも言えぬ 「またか……」という表情をしている。
「ええ、またよ」
ナスターシャは、当然のように言い放った。
「……へへっ、さすがですぜ、旦那」
「違う、俺の意思じゃない!!!!」
などと叫んでみたところで、馬車は俺たちを大聖堂へと運んでいった。
カザン大聖堂の荘厳な扉の前に立つ。
あの夜と同じように、俺は扉を叩こうとしたが――
「待って」
ナスターシャ・フィリポヴナが前に出る。
そして、彼女が拳を固めると――
ドゴオオオオオン!!!!!!
荘厳な扉が揺れるほどの衝撃。
俺ですら控えめに叩いたというのに、こいつは……!!?
しばらくして、中から眠そうな顔をした神父が出てきた。
「……今度は何ですか」
神父は、目の前の俺たちを見て、すでに嫌な予感を感じ取ったようだった。
ナスターシャ・フィリポヴナが、涼しい顔で言い放つ。
「もう一度、結婚式よ」
「え、えええええええ!?!?!?」
神父の顔が青ざめる。
「無理です!!!」
「なぜ?」
「いや、なぜって……そもそもあなたたちはすでに結婚しているし、教会の式には色々と決まりが――」
「――承知してくれ!!」
俺は、すかさず神父に頭を下げた。
「俺は、この女性に……
このナスターシャ・フィリポヴナに、もう一度、正式に誓いたいんです……!!!」
「……」
神父は困惑したように俺を見つめる。
しかし、次の瞬間――
ガシッ!!!!
「な、ナスターシャ・フィリポヴナ?」
ナスターシャ・フィリポヴナが、俺の襟を掴んでいた。
「まあ、神父様を投げるわけにはいかないものね」
「ちょっ、待て!?!?!?」
「ナスターシャ・フィリポヴナ流・誓約一本(Клятвенный Ипон)!!!!!」
ドゴオオオオオオオオン!!!!!!!!!!
「ぐばあああああああ!!!!!!!!!?」
俺はまた宙を舞い――
大聖堂の石畳に叩きつけられた。
「…………」
神父は、遠い目をした。
しばしの沈黙。
大聖堂の荘厳な空気の中、ナナスターシャ・フィリポヴナが満足げに息を整える。
俺は……動けない。
床に倒れたまま、視界の端で見た。
神父は、何も言わずに教会の中へ引っ込む。
もう……何も言わない。
神の御業ですら、この光景には介入できなかったのだ。
いや、神は、生神女を、守護天使を、聖人を通じて導く。
導くけど介入はしない。
つまり、俺たちも導かれて、ここにいるのだ。
そしてしばらくして、戻ってきた。
「……準備、します」
「やったー!!!」
ナスターシャ・フィリポヴナが嬉しそうに拍手する。
俺は、まだ地面に転がったまま「やったのはお前のほうだろ……」 と呻いた。
というわけで、二度目の結婚式が始まった。
神父は深くため息をつき、遠い目をしながら、静かに十字を切った。
そして、崩れかけた大聖堂の石畳に転がる俺を一瞥し、言った。
「……生神女が、すべてを許してくださるでしょう」
いや、それで済ませていいのか!?!?!?
神父は再び深いため息をつき、静かに俺たちを見つめた。
「……もういいでしょう」
「では、結婚の儀を執り行います」
俺は、ようやく床から起き上がり、震える足でナスターシャ・フィリポヴナの隣に立った。
――二度目の結婚式が始まる。
深夜のカザン大聖堂。
荘厳な聖歌が流れ、厳粛な雰囲気が満ちる。
……しかし。
「なぜ聖歌隊が完璧なハーモニーを奏でているんだ!?」
俺は疑問を口にせざるを得なかった。
「こんな深夜に、急に結婚式を頼み込んだはずなのに!? なぜ!? いつの間に!?!?」
「タカシ」
ナスターシャ・フィリポヴナが俺の手をぎゅっと握る。
「イコンはね、奇跡を起こすのよ」
「いや、奇跡っていうか、これは絶対に裏で誰か仕込んでただろ!!!!!」
言ってる場合ではない。
神父が目を閉じ、ゆっくりと祈りを捧げる。
「主よ、この二人を祝福し、導きたまえ」
その声に、聖堂内の空気が変わる。
俺は改めて、ナスターシャの横顔を見つめた。
彼女は――美しかった。
紅のドレスが静かに揺れ、夜のペテルブルクに灯る無数の光のように輝いている。
瞳には迷いはない。
俺は――
「……ナスターシャ・フィリポヴナ」
神父の祈りが終わると、ついに誓約の時が訪れた。
「新郎、新婦よ」
神父が神聖な声で宣言する。
「互いに永遠の愛を誓いますか?」
俺は、ナスターシャ・フィリポヴナを見つめた。
「……俺は……」
俺は、深く息を吸い込む。
そして、全力で叫んだ。
「俺は!!!」
「ナスターシャ・フィリポヴナを愛してる!!!!」
彼女の悲劇を救うとか、
運命を変えるとか、
そんなことじゃない。
俺は、ただ――
「お前が好きだ!!!!」
ナスターシャ・フィリポヴナが目を見開いた。
「俺は、お前と生きていきたい!!!」
「運命がどうだろうが、世界が何を決めようが関係ない!!!」
「俺の人生は!! 俺のものだ!!!」
「だから――お前と一緒にいる!!!」
静寂。
カザン大聖堂の聖堂の中、誰もが沈黙していた。
ナスターシャ・フィリポヴナが、ゆっくりと瞬きをする。
そして――
微笑んだ。
「……そう」
「それなら」
「ナスターシャ・フィリポヴナ流・新婚投げ(Медовый Месяц Бросок)!!!!!!」
「ぬおおおおおおおおおおおおお!!!!???」
俺の身体が、また宙を舞う。
神父は遠い目をしながら、静かに十字を切った。
「……生神女が、すべてを許してくださるでしょう」
そして――
俺とナスターシャ・フィリポヴナは、
世界が見たことのない、新たな夫婦として誕生した。




