69:お前の意志はどこにある!
「運命とは、そういうものだ」
低く、響くような声が部屋に満ちる。
ロゴージンが、ゆっくりと立ち上がった。
「この世界には、決して変えられないものがある」
「それは、神が決めたことかもしれない」
「それは、物語の定めかもしれない」
「だが、結局のところ――」
ロゴージンの瞳が、狂気に染まる。
その目が、俺を価値のない虫けらのように見ている。
「ナスターシャ・フィリポヴナは、俺のものだ」
脳が焼けつくような怒りが、俺の全身を駆け巡る。
――ふざけるな。
この男に、ナスターシャ・フィリポヴナを渡すわけにはいかない。
俺は、すべてを懸けて、ここまで来たんだ!!!
「ふざけるな……!!!」
声にならない声を振り絞る。
拳を握る。足に力を込める。
全身が痛い。あちこちの骨が悲鳴を上げている。
だが、それでも――!
俺は、咆哮しながらロゴージンに向かって飛び込んだ。
だが――
バギィッ!!!!
重たい衝撃が、頬骨を砕いた。
世界がぐるりと回る。視界が暗くなる。
次の瞬間――
「ガハッ……!!!」
背中に衝撃が走る。
床に叩きつけられた俺の意識が、一瞬遠のいた。
痛い。苦しい。
いや、そんな言葉では足りない。
全身がバラバラに砕かれたような感覚。
腕を動かそうとする。だが、力が入らない。
それでも――
俺は、這いずりながら、立ち上がろうとする。
「まだ……まだだ……!!!」
その言葉が、自分自身にすら嘘のように聞こえた。
ロゴージンが冷たく笑う。
「しぶといな」
次の瞬間――
膝が俺の顔面に突き刺さった。
ガッ!!
白い閃光が弾ける。
脳が揺れる。歯が軋む。
口の中に広がる鉄の味。
息が、できない。
それでも――
俺は、立ち上がる。
いや、もう立ち上がるというより、死んだ体を引きずり起こしているだけだった。
足が震える。骨が軋む。視界はぼやけ、耳鳴りが酷い。
「ナスターシャ・フィリポヴナ……!!!」
声が、震える。血に濡れた歯が痛む。
視界の先、ナスターシャ・フィリポヴナが微かに、瞳を揺らした。
俺は、ここで倒れるわけにはいかない。
「運命なんかじゃない……!!!」
「お前が、どんなに自分を呪っても……!!!」
「俺は、俺の意思で、お前を愛する!!!」
「お前が……生きる限り!!!」
心臓が叫んでいる。
全身がボロボロになっても、俺は叫ぶ。
喉が裂けるような声だった。
ロゴージンが、不快そうに舌打ちをする。
そして――
ゴシュッ!!!!
最後の一撃。
俺の身体が宙を舞う。
天井が見える。
ナスターシャ・フィリポヴナの顔が、悲しそうに歪んで見えた。
俺の視界が、暗転した。
もう、動けない。
ロゴージンの靴が、俺の身体を何度も何度も踏みつける。
骨が軋み、内臓が悲鳴を上げる。
「ぐっ……は……!!」
息が、詰まる。
ロゴージンが唾を吐きかける。
「ふん、惨めなもんだな……」
血と唾液が混じった泥が、俺の顔にへばりつく。
畜生、畜生……!!
俺は、歯を食いしばる。
だが――
もう、動けない。
ロゴージンが、ナスターシャ・フィリポヴナの元へと歩み寄る。
「ナスターシャ・フィリポヴナ……お前は俺のものだ」
俺は、微かに瞳を開く。
ナスターシャは、微動だにしない。
ただ、静かに、目をつぶる。
「……そうね」
俺の心臓が、軋んだ。
ああ、やはり……この物語は改変できないのか。
ナスターシャ・フィリポヴナは、運命を受け入れるのか。
ロゴージンの腕が、彼女の肩に伸びる。
「お前は……俺のものだ」
その言葉に、公爵が、震える声で口を開く。
「ナスターシャ・フィリポヴナ……!! いや、待て、まだ間に合う……!!!」
公爵の声は必死だった。
「僕は……君を救いたいんだ……!!!」
救いたい。
救いたい。
救いたい。
お前はそれしか言えないのか。
俺は、血の滲む唇を噛みしめた。
すると、隅で沈黙していたトーツキイが、咳払いをした。
「……うーん、あのさ」
場違いなほど、軽い調子だった。
「このままだと、物語が変わるんだけど……俺、帰っていい?」
おい。
トーツキイは、ロゴージンと公爵を交互に見つめたあと、大きく息をついて肩をすくめた。
「いやさ、どう考えても、これ、俺がいる意味なくない?」
「だってほら、ナスターシャ・フィリポヴナはお前のところに行くって決めたし、公爵はいつもの“救いたい”を連呼してるし……」
「俺ってもう、役目終わったよな? なら、帰るわ」
俺は、ぶん殴りたい衝動に駆られたが、立ち上がることすらできなかった。
それでも――
まだ、終わっていない。
俺は、ロゴージンを睨みつけた。
「ナスターシャ・フィリポヴナ……!!!」
最後の力を振り絞り、叫ぶ。
「お前の意思はどこにある!!!」
俺の絶叫が、静まり返った空間に響いた。




