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68:ナスターシャ・フィリポヴナ非情の運命

息が荒い。

血の匂いが鼻を突く。

傷だらけの拳を握りしめるたびに、全身に激痛が走る。

だが――それでも、俺は行かねばならない。


「ナスターシャ・フィリポヴナが待っている……」


ロゴージンの屋敷へと続く大通りを駆け抜ける。


この瞬間、この世界の全てが俺を阻もうとしている気がした。

ペテルブルグの街が、俺を押し戻そうとしているようにさえ感じる。

それでも、足を止めるわけにはいかない。


ドフトエフスキーの拳を受け止めたこの身体で、今度こそ――

ナスターシャ・フィリポヴナを、救う。


ロゴージンの屋敷の扉を蹴り破り、俺は突入した。


豪奢なシャンデリアがきらめく室内。

金色の装飾が施された壁。

だが、そこに漂う空気は、張り詰めた死の匂い。


中央の長椅子に、ロゴージン。

その傍らに、公爵。

そして、トーツキイ。


三人の男たちが、俺の乱入にも微動だにせず、そこに座っていた。


そして――

ナスターシャ・フィリポヴナがいた。


黒いドレスに身を包み、長椅子の隣に立つ彼女は、まるで……絵画のように美しかった。

その瞳が、俺を射抜く。


「……タカシ」

「ナナスターシャ・フィリポヴナ……!!!」


その瞬間、俺は一歩を踏み出そうとした。

だが、彼女が静かに右手を上げた。


「……来ないで」


俺は息を呑む。


「……タカシ、あなたは、私を救おうとしているのね」

「だが、そんなものは無意味よ」

「運命は、変えられないの」


ナスターシャが静かに語り始める。


ロゴージンも、公爵も、トーツキイも、誰も口を挟まない。

彼女は、まるで――この世界そのものの声で語るように。


「私がどうなるか、あなたは知っているでしょう?」

「あなたは、異世界から来たのよね」

「だったら、知っているでしょう」

「私が……この物語の中で、どんな結末を迎えるのか」


俺は歯を食いしばった。


「私は、すべてを知っているの」

「私の運命が、何度繰り返しても、決して変わらないことを」

「私は、トーツキイの愛人だった」

「私は、ロゴージンに囚われた」

「私は、公爵に幻想を見せられた」

「そして……私は、殺されるのよ」


俺の手が、震える。


「……ナナスターシャ・フィリポヴナ」

「あなたが何をしようと、どれだけ戦おうと、私は変わらない」

「私は――滅びる女よ」

「だから、お願い……」


ナスターシャ・フィリポヴナの瞳が、悲しげに細められる。


「私を……愛さないで」


俺の心臓が、軋む。


「私を、救おうとしないで」


彼女の言葉が、胸を貫く。


「私の運命は、私が受け入れるもの」

「あなたの拳では、あなたの言葉では、この物語は変えられない」

「私は、もう……疲れたのよ」


ナスターシャ・フィリポヴナの手が、ゆっくりとロゴージンの手に重ねられる。


「私は……この手を取るの」

「そして、私は――」


俺は、拳を握りしめた。

叫びたい。

ナスターシャ・フィリポヴナを抱きしめたい。

彼女の言葉を否定したい。

だが――俺の口から出たのは、ただ一言。


「……嘘だ」


ナスターシャ・フィリポヴナの瞳が、微かに揺れる。

俺は、ただ、彼女を見つめていた。

だが、ナスターシャはその視線を拒絶するように、静かに首を振った。


「……あなたは、本当に愚かね」

「タカシ、あなたは何もわかっていない」

「私は……もうずっと前から、こうなることを知っていたのよ」

「あなたがどれだけ戦おうと、どれだけ私を愛そうと……」

「この結末は、変えられないの」

「だって、私は……私という存在そのものが、そういう女なのだから」


彼女の声は、どこまでも冷たく、そして、どこまでも哀しかった。


「私はね、タカシ」


「トーツキイに売られた時に、すべてを捨てたの」

「ロゴージンに囚われた時に、すべてを諦めたの」

「公爵に幻想を見せられた時に、すべてを忘れたの」


「私は、ただの器に過ぎないのよ」

「誰かの愛を受ける資格なんてない」

「あなたがどれだけ叫んでも、どれだけ手を伸ばしても……私は、もう――」

「愛なんて、知らない」

「愛? タカシ、あなたは"愛"を知っているの?」


「たった一度、私の手を取っただけで? 一度抱きしめて、何かを語っただけで?」

「あなたは、私の何を知っているの?」

「私は、男たちの間を漂うだけの幻よ」

「夢の中で求められ、現実になった瞬間に捨てられる女なの」


「公爵は、私を天使と呼んだ」

「ロゴージンは、私を魔女と呼んだ」

「トーツキイは、私を商品と呼んだ」


「そしてあなたは――なんと呼ぶの?」


「私はね、あなたが思っているような女じゃないの」


「もし"救われる"ことができるなら、もうとっくに救われているはずでしょう?」


「どうして、何度も逃げたと思う?」

「どうして、何度も振り払ったと思う?」

「私は、幸せになんてなれないのよ」

「どれだけあなたが努力しても、どれだけあなたが傷ついても」


「私は、あなたの"救われるべきヒロイン"なんかじゃないの」


「私は、汚れているの」

「私は、罪を犯したの」

「私は、誰のものにもならない」

「私は、誰も愛せない」


「だから、お願い、タカシ――」


「ここで、諦めて」


「あなたの目に映る私は、本当の私じゃない」

「あなたが追いかけているのは"ナスターシャ・フィリポヴナ"の亡霊よ」

「あなたが抱きしめたのは、幻想よ」

「あなたが誓った未来なんて、どこにも存在しないの」


「だから、お願い、タカシ――」


「目を覚まして」

「この世界は、あなたのものじゃないの」

「あなたは、本来ここにいるべき人間じゃないのよ」

「この世界には"物語"があるの」


「"物語"は、私を破滅へと導く」

「それが、私の運命よ」


「あなたが何をしようと、何を叫ぼうと」


「"ナスターシャ・フィリポヴナ"は、ロゴージンの手にかかって死ぬの」


「それが、"白痴"の結末」


「あなたが"救う"なんて、そんな話は、この世界にはどこにもないのよ」

「だから――タカシ」


「さようなら」


俺の心臓が、締めつけられる。


「ナスターシャ・フィリポヴナ……!」

だが、彼女は俺を見ようともしなかった。


「そんなこと、誰が決めた!?」


「ナスターシャ・フィリポヴナ、お前は……!!!」


俺は、歯を食いしばり、叫んだ。

だが――


ドゴォッ!!


次の瞬間、俺の腹に、鉄槌のような拳がめり込んだ。

「ぐっ……!!!」

息が詰まる。肺が悲鳴を上げる。胃の中のものが逆流しそうになる。

視界がぐにゃりと歪んだ。


立っていられない。崩れ落ちる膝。

床に手をついた俺を、ロゴージンが冷たく見下ろしていた。

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