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51:罪と罰

食事が一段落した頃、男はスプーンを置き、

ゆっくりと俺に向き直った。


「……さて、そろそろ自己紹介しておこうか」


俺はスープをすすりながら、警戒する。


男は、静かに微笑んだ。


「俺の名前は――佐藤ケンジ」

「……日本人、か?」

「そうだ」


「お前と同じ、転生者だ。」


「な、なにぃ」


俺はスプーンを落としそうになった。


「ちょっと、大げさすぎるわよ」


女が微笑みながらグラスを口に運ぶ。

だが、俺はそれどころではない。


俺以外にも、この世界に転生者いる。


「な、なぜ……?」


佐藤ケンジは、ゆっくりとグラスを置き、

俺をまっすぐに見つめる。


「ま、聞いてくれ」

「俺の話を」


「俺は、お前と同じ、現代日本にいた」


「平凡な会社員だったよ。まぁ、クソみたいなブラック企業だったがな」


「そんなある日、俺はドフトエフスキーの『罪と罰』を読んだ」


「そして、雷に打たれたように思った」


「俺は、この手で――ラスコリーニコフを倒さねばならぬ!!!!」


「…………」


「そして、彼女を救わねばならぬ!!!!!!」


「彼女……?」


「そう」


佐藤ケンジの目が、遠くを見つめる。


「……俺は、あの本を読んでしまったんだ」


静かに語り出すその声は、まるで彼自身の人生を呪うようだった。


『罪と罰』――。 


ドフトエフスキーの筆致が、脳天に突き刺さるようだった。 

ラスコリーニコフという男の歪んだ正義。 

彼は、人を殺すことで“選ばれた人間”になれると信じた。


「だが、そんな彼の前に現れたのが、彼女だった」


佐藤ケンジの声が、僅かに震えた。


「俺は、衝撃を受けた。震えた。こんな存在が、こんな世界に生きていたのかと……」

「俺は、彼女を救わなければならないと確信した!!!」


「でもな……俺はただの凡人だった」


平凡な日本人の男に過ぎなかった」


「だから、俺は考えた。どうすれば、彼女を救えるのか?」


「ラスコリーニコフは斧を使う。いくら素人はいえ武器をもった男は驚異だ……」


「強くなければならない!!!!」


「この手で、彼女を守れるだけの力を持たねばならない!!!」


「……そう確信した俺は――まず、空手を始めた」


「週二回の稽古? そんなものは甘い」


「俺は毎日、仕事が終わったら道場に向かい、深夜まで蹴りと突きを繰り返した。

手の皮が剥け、拳が腫れ上がり、それでも打ち続けた」


「道場の連中に言われたよ。

『お前、何を目指してるんだ?』

『フルコンタクト空手でも、そこまでやらんぞ?』」


「俺は答えなかった。その時間も惜しかったのだ」


「そうしているうちに、俺は黒帯を取った。

全国大会にも出場した」


「でも、そんなことに意味はない!!!!!」


「……戦いだけじゃダメだ。

彼女と向き合うためには、言葉を知らねばならない」


「だから俺は――ロシア語を学び始めた」


「この時点で、

俺の生活は完全に彼女のためになっていた」


「空手の稽古の後、ボロボロになった体で帰宅し、深夜2時までロシア語の文法を暗記」


「発音を鍛えるために、NHKの『まいにちロシア語』のCDを100回繰り返し聞いた。寝る時は、ロシア語の詩を暗唱しながら眠りについた」


「会社の昼休み? 俺は社員食堂でひたすら単語帳をめくっていた」 


「ロシア語の動詞変化表を丸暗記し、会話フレーズを紙に書いて、反復練習しつづけた」


「“Я должен спасти её.”(俺は彼女を救わねばならぬ) と、毎日朝晩ノートに1000回書いた」


「上司に言われたよ。『佐藤、お前、最近様子がおかしいぞ』『転職でも考えてるのか?』」


「違う、違うんだよ……!

俺は、転職なんかじゃない……」


「俺は、異世界転生する準備をしていたんだ!!!!!」


「だが、まだ異世界転生にするには、準備が足らなかった!!!!!」


「そうだ、俺は、ロシアという国を知らなければならな……だから、俺はロシア人になりきる生活を始めた」


「朝食は黒パンとハチミツ。

昼はボルシチを自作し、

夕食にはピロシキを作り、

ウォッカを飲みながら『カチューシャ』を歌った」


「休日には、ロシア料理店を巡り、

店員だけでなく客にも声をかけ、

流暢とは言えないロシア語で必死に会話を試みた」


「だが、それでも足りなかった……」


「俺は確信した。このままでは、彼女を救う資格がない。だから――俺はロシアに渡った」


「飛行機で悠々と到着したのでは意味がない!!!!」


「仕事を辞めた俺は、各駅停車で境港に向かった。

そして、ウラジオストック行きの船の韓国の船に

乗せてもらい、ロシアの大地にたどり着いた」


「それから、シベリア鉄道でようやくウラルを越えて、

モスクワへ。そして、ペテルブルグにたどり着いたのだ」


「もう、帰るつもりはない。

八方手を尽くして長期の滞在許可を得て、

俺は住処を探した」


「アパート探しは地獄だった。

ロシア語の電話対応なんて聞き取れない。

それでも、必死に交渉し、何とか借りた。

オンボロの一室を」


「市場で買い物をしようとしても、店主に『何言ってんだ、お前』と罵倒される。それでも、俺は食らいついた」


「独り寝のペテルブルグの冬は、寒かった。

氷点下20度の夜、俺は凍えながら教会で祈った

『俺は、彼女を救う』と」


「そうして……俺はついに、この世界に転生した」


佐藤ケンジは、ふうっと長く息を吐いた。


「……そして今、ここにいる」


俺は、言葉を失っていた。


……こいつ。

俺は確かにナスターシャ・フィリポヴナを

救うために転生を願い、努力してきた。


だが――


こいつは違う。


俺以上に。

俺の想像を超えて。

この世界にたどり着くために、

狂ったような執念で、常識の枠を超えて――


すべてを捨て、すべてを投げ打ち、

ただ彼女のために生きてきた男。


「……お前……」


俺の喉はカラカラに乾いていた。

興奮? 震え? 恐れ? いや――この感情は何だ。


羨望か。


いや、違う。


感動だ。


「……お前、本当に、転生を……この世界に……」


俺は何度も自分の声が震えるのを感じながら言葉を発する。


佐藤ケンジは、静かに笑った。


「そうさ。俺は――ラスコリーニコフを倒し、

彼女を救うために転生した男だ」


俺の全身に、電流が走った。


こいつは、間違いなく俺と同じ。

いや――俺よりも遥かに覚悟を決めて、この世界にやってきた。


この男の前では


「たまたま転生した」


なんて言葉は通用しない。


努力し、鍛え、すべてを賭けて、

"自ら"異世界転生を勝ち取った男――


俺は――

俺は、こんなヤツと、出会ってしまったのか。


胸が熱くなる。

鼓動が速くなる。


「……佐藤ケンジ」


俺は、拳を握りしめ、立ち上がる。

ケンジもゆっくりと立ち上がる。


「お前は……最高の転生者だ!!!!」


「フッ……」


佐藤ケンジは、ニヤリと笑った。


俺は今、この世界で"同志"を見つけたのかもしれない。




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