49:絶望
冷たい夜のペテルブルグ。
俺は、ただ彷徨っていた。
どこに向かっているのかもわからない。
足はもつれ、視界はぼやけ、
体中が痛みで悲鳴を上げていた。
「ナスターシャ・フィリポヴナ……」
俺は呟いた。
だが、その名を口にするたびに、
胸の奥が抉られるような感覚に襲われる。
ナスターシャ・フィリポヴナは、俺を見捨てた。
俺のすべての努力は、無駄だったのか?
ここまでの道のりは、なんだったのか?
俺は、投げてきた。
公爵を。
ロゴージンを。
トーツキイを。
エパンチン将軍を。
将軍の夫人を。
三姉妹を。
ナスターシャ・フィリポヴナすらも投げた。
しかし――
俺は、投げ返された。
ドフトエフスキーという、この世界の神に。
そして、敗れた。
俺の居場所は、この世界にはなかったのだ。
「……ちっ」
その時、肩にぶつかった男が、俺を睨みつける。
「てめぇ、どこ見て歩いてんだ、あぁ?」
チンピラだ。
ロシアの街にはこういう連中がいる。
ペテルブルグの闇を生きる、腐りきった男たち。
俺は何も言わなかった。
いや、言う気力がなかった。
「なんだよ、こいつ……死にかけか?」
「まあ、いい。ちょっとこっち来いよ」
俺は抵抗することなく、
ただ、彼らの腕に引きずられるまま、
薄暗い路地裏に消えた。
そして――
鈍い衝撃が、俺の体に降り注ぐ。
「ぐっ……!」
ドゴッ!!
腹に膝蹴りがめり込む。
「うげっ……!!!」
口から血が飛び散る。
バキッ!!!
「がはっ……!!」
拳が顔を打ち抜く。視界がぐるぐる回る。
俺は、抵抗しなかった。
いや――
もう、抵抗する理由がなかった。
「なんだよ、こいつ……つまんねぇな」
「ちっ、やめとくか。」
「どうせ、こいつはもう終わってるさ」
ボロボロの俺は、まるで使い捨てられたボロぞうきんのように、 冷たい石畳に転がった。
ぼやけた意識の中で、俺の脳裏には、
これまでのすべてが蘇る。
――ロシア語学習の日々。朝5時に起き、筆記体を書き続け、まいにちロシア語の例文を暗記し、眠る前にはナスターシャの名を叫んだ。
――柔道の修行。小学生にも投げ飛ばされながら、必死で技を磨いた。やがて、師範代と互角以上に戦えるようになり、ついには師範すら投げた。
――クレムリンの謎のスキンヘッドとの死闘。俺とあの男は拳を交えた。俺は投げた。そして、投げ返された。
すべてが、無駄だったのか?
俺のしてきたことは、何一つ意味を成さなかったのか?
ナスターシャ・フィリポヴナを救うために、俺はすべてを捨ててきた。
過去も、前世の人生も。
それなのに――
「……っ……くそ……」
かすれた声が漏れる。
俺は、ボロボロになりながら、ただ、路地裏の石畳に倒れていた。
ペテルブルグの夜風が、冷たかった。




