26:公爵(多分)を投げる
彼女の瞳は、すべてを諦めたかのような哀しみを湛えていた。
そして――美しい。美しすぎる。
俺は、悶絶した。喉が、カラカラに渇く。
目の前の光景に、脳が焼かれたような衝撃を受ける。俺の中の何かが、爆発する。
(無理だ……無理だろこんなの!!)
これまで俺は42年間、独身で生きてきた。今まで生きてきた中で、こんな美しさを直視したことがあるか!? いや、ない!!
目の前にいるのは、ただの美女ではない。これは、ナスターシャ・フィリポヴナだ。
小説の中で語られた、あの「宿命の女」が、今、俺の目の前にいる!!
黒い髪が燭台の灯りに揺れるたびに、俺の理性が削られる。蒼白い肌は、まるで夜の月のように冷ややかで、それでいて妖しく輝いている。
細く美しい指が、ワイングラスを持つ仕草すら、この世のものとは思えぬほど優雅だ。
(……無理だ!!!)
また悶絶する。これはダメだ。これはダメなやつだ。42歳独身の俺が、こんなものに耐えられるハズがない!!
呼吸が乱れる。視界が揺れる。今すぐ「ナスターシャ・フィリポヴナァァァ!!」と叫んで駆け寄りたい衝動に駆られる。
だが――
(待て……そうだ、俺は……)
俺は、ロシア語を学んだ。
俺は、身体を鍛えた。
俺は、正教会の洗礼を受け、
クレムリンで警備員を投げ飛ばし、
スキンヘッドの男と死闘を繰り広げた男だ!!
(落ち着け、呼吸を整えろ……!!)
俺は、ゆっくりと深呼吸した。
(そうだ、まずは彼女の様子を冷静に見ろ)
震える手を握りしめ、俺はもう一度、ナスターシャ・フィリポヴナを見つめた。
そして――彼女の手に、新聞紙に包まれたものがあった。
(……まさか!!)
そうだ。あれは――ロゴージンが持ってきた10万ルーブル!!!
まさに今、あの「運命の瞬間」が訪れようとしているのだ!!
(俺は、どうする!?)
心臓が、激しく鳴り始めた――!!!
その時だった。俺の視界に、ある男の姿が入った。
――公爵。
アイツだ。ムイシュキン公爵。
「美しい……」「救わねば……」
そんな言葉を呟きながら、何もしないで佇んでいる男。コイツが、多分ムイシュキン。
ナスターシャ・フィリポヴナが弄ばれ、この地獄のような夜会が繰り広げられているというのに――何もしない。
(……こいつだ)こいつがすべての元凶。
ナスターシャを「愛している」と言いながら、結局何もできず、ロゴージンに彼女を渡し、最後には……!
怒りが、俺の中で爆発した。
(許せん!!!)
うぉおおおおおお!!!!
俺は走り込んだ。
会場のざわめきが、俺の咆哮にかき消される。
公爵――多分、いや、きっとコイツがムイシュキン公爵に違いない!
ムイシュキン公爵――ナスターシャ・フィリポヴナの苦しみに、何もできなかった無力の象徴。「善人」として免罪され、すべてを傍観した張本人。
原作通りの、あのやさ男じみた頬ヒゲで、「美しい……なんて、美しい魂なんだ……ああ……救いたい……」とか、ほざいているだけ。
確証はないが、確信はある。コイツがムイシュキンだ!!!多分!!!
その男めがけて、俺は猛然と突進した!!
――一本背負い!!!
ズシャアアアアアアッ!!!
公爵(多分)が宙を舞った。
貴族たちの悲鳴が響き渡る。シャンデリアの光の下、公爵の体が美しい弧を描き――豪華なカーペットの上に叩きつけられた!!
「……うぐっ!!!」
公爵(多分)は、床に転がり、ピクリとも動かない。
貴族たちが一斉に息を呑む。
「……な、何が……!?」「えっ、公爵が……?」「なんだこの男は!??」
俺は、荒い息をつきながら立ち上がる。
(やった……やってやったぞ!!)
ムイシュキン公爵(多分)は、やがて呻きながら、ゆっくりと体を起こした。顔を上げたその目は、驚きに満ちている。
俺は、その目を睨みつけ、はっきりと、低く、力強く言った。
「ナスターシャ・フィリポヴナを……お前から救う!!!」
夜会の場が、完全に静まり返る。
俺の叫びが、ペテルブルグの貴族たちに叩きつけられた――!!




