第34話「熱中症ですか? 」
五月十一日、月曜日。
外回りから戻る頃には、背中が少し汗ばんでいた。
入社して一か月。
名刺を出す手つきは、ようやく落ち着いてきた。
それでも、神崎さんの隣では毎日、自分のできないことが増えていく気がした。
相手の質問に答える速さ。
話を聞きながら、必要な資料を迷わず開く手。
俺が帰り道でようやく気づいたことを、この人は商談中に確かめていた。
今日もすごかったな、と思いながら営業部へ戻った、そのときだった。
神崎さんの足が、ふと止まった。
視線の先には、書類を持った女性がいた。
俺たちに気づくと、その人も少し驚いた顔をした。
それから交わされた挨拶は、俺には普通のやり取りに聞こえた。
ただ、いつもならすぐに返ってくる神崎さんの言葉が、ほんの少し遅かった。
知り合いなのかな。
そう思ったものの、俺は先に自分の机へ鞄を置いた。
女性が営業部を出ていった直後だった。
背後で、がくりと人影が沈んだ。
振り返ると、神崎さんが膝から崩れ落ちていた。
「熱中症ですか?」
つい、のんきな声が出た。
さっきまで普通に歩いていたし、今日は暑かったからだ。
けれど、しゃがみ込んだままの姿に、慌ててそばへ寄った。
「水、持ってきましょうか。」
「……ただの立ちくらみです。」
返事はあった。
差し出した俺の手を見て、神崎さんは一度目を閉じ、それからゆっくり立ち上がった。
「大丈夫です。」
「でも、ちょっと座ったほうが。」
「そうします。」
椅子に腰を下ろした神崎さんの耳が、赤かった。
あの神崎さんでも、こんなふうになることがあるのか。
商談中も、帰り道も、いつも隙がなかった。
だから俺は、その日初めて、この人も疲れたりするんだなと思った。
……だいぶ見当違いだったと知るのは、もう少し先の話だった。
さっきの女性が経理部の春宮陽菜子さんだと知ったのは、その日の午後だった。
書類を届けるよう頼まれて経理部へ行くと、春宮さんが顔を上げた。
「営業部の佐藤です。こちら、お願いします。」
「ありがとうございます。……あ、午前中に神崎さんと一緒にいた方ですよね。」
「はい。四月に入ったばかりで、いろいろ教わってます。」
「そうだったんですね。」
春宮さんは穏やかに笑って、書類を受け取った。
その場で目を通し、俺が持ち帰る分を分けてくれた。
「こちらは営業部で保管してください。」
「ありがとうございます。」
危なかった。
全部置いて帰るところだった。
受け取った書類を確認する俺を、春宮さんは急かさず待ってくれた。
神崎さんとは、どういう知り合いなんだろう。
少し気になったけれど、初めてまともに話す相手に聞くことでもなかった。
俺も一応、そのくらいは考えるようになっていた。
その週末、久しぶりに六人で集まった。
駅近くのファミレス。
テーブルに料理が揃うより先に、美奈が背もたれへ身体を預けた。
「一週間、長すぎない?」
「月曜の朝は特にな。」
田中の返事に、俺も頷いた。
「わかる。金曜の夜だけ時間進むの早い。」
「それは大学の頃から言ってた。」
小川が淡々と返してきた。
「今は重みが違うんだよ。」
笑いながらも、みんな少しずつ疲れた顔をしていた。
大学にいた頃は、会えば誰かが次の講義を気にしていた。
今は月曜日の予定を気にしていた。
「凛はどう?」
詩織ちゃんに聞かれ、隣の凛が水のグラスを置いた。
「覚えることが多いかな。大学で勉強したことも、仕事だと確認することが全然違って。」
「帰ってからも勉強してるもんな。」
「わからなかった言葉を調べてるだけだよ。」
その『だけ』を毎日続けられるのが、すごいと思っていた。
「夏樹くんも、メモ読み返してるでしょ。」
「俺のは、読み返さないと忘れるから。」
「理由は私も同じ。」
凛が少し笑った。
仕事の話になると、まだ知らない名前や言葉が増えた。
それでも、こうして聞けば、凛がどんな一週間を過ごしたのか少しわかった。
「夏樹は?営業、慣れた?」
田中に聞かれ、俺は首を振った。
「全然。でも、教えてくれる先輩がすごくてさ。話すのが上手いだけじゃなくて、相手が何に困ってるか聞くのが上手いんだよ。」
「お前、先に喋りそうだもんな。」
「そうなんだよ。そこ直したい。」
小川が、少し意外そうに俺を見た。
「ちゃんと自覚あるんだ。」
「あるわ。」
言い返すと、隣で凛が頷いていた。
そこは否定してくれてもいいと思った。
詩織ちゃんも、まだ仕事の流れを覚えているところだと話した。
小川とは休みが合わない週もあるらしかった。
「会えないときは、夜に少し電話したりしてるよ。」
「こないだは五分で寝たけど。」
「……あの日は眠かったの。」
「うん。だから切った。」
小川は当たり前のように言って、ポテトを一本つまんだ。
無理に起こさず、責めもしない。
詩織ちゃんも、申し訳なさそうにしながら笑っていた。
二人らしいなと思った。
田中は、仕事で電話を取るときにまだ少し緊張すると話した。
美奈はそれを聞いて、勢いよく顔を上げた。
「わかる!聞きながらメモ取ってたら、次の話になってるの。」
「それで焦ると、余計に書けなくなるよな。」
「そう、それ。昨日もさ――」
話し始めた美奈の前で、料理の湯気が薄くなっていた。
田中が皿を指さした。
「美奈、先に食べたら。昼もちゃんと食べてないって言ってただろ。」
「あ、そうだった。お腹すいてたんだった。」
美奈がフォークを取ったところで、凛が首を傾げた。
「今日、お昼遅かったの?」
「起きたら昼過ぎで。そのまま洗濯とかしてたら、食べそびれちゃった。」
「だから、何か食べとけって送ったのに。」
田中が呆れたように言った。
美奈はひと口食べてから、田中を見た。
「昨日も話聞いてくれてありがと。途中から、ほぼ愚痴だったよね。」
「途中からだったか?」
「最初からって言いたいの?」
「自分でわかってるならいいけど。」
美奈が笑った。
田中も、つられたように口元を緩めた。
俺は何か言いかけて、やめた。
まだ聞かなくていいことも、きっとあった。
店を出る頃には、すっかり暗くなっていた。
「次は来月あたり?」
美奈の言葉に、それぞれがスマホを取り出した。
すぐに全員の予定が合わないところだけ、大学の頃とは違った。
それでも、候補の日を二つ決めた。
駅へ向かう途中、田中が美奈に何か話しかけていた。
さっきより元気な声で、美奈が答えた。
隣では凛が、スマホの予定表に集まる候補日を入れていた。
「また六人で会えるといいね。」
「会えるだろ。今日も会えたし。」
「うん。」
月曜日になれば、またそれぞれの場所へ行く。
わからないことを聞いて、失敗して、家に帰る頃には疲れている。
その繰り返しの中に、今日みたいな日がある。
来月ここで話す頃には、仕事でできるようになったことも、ひとつくらい増えていたらいいと思った。




