第33話「明日も頑張れるわ、俺。 」
四月一日。
俺は、社会人になった。
入社式を終え、配属先の営業部で挨拶をしたときは、大学の卒業式より緊張した。
「本日入社しました、佐藤夏樹です。一日も早く仕事を覚えられるよう頑張ります。よろしくお願いします。」
頭を下げて顔を上げると、見覚えのある人がいた。
赤茶色の髪に、隙のないスーツ姿。
面接で俺の話を聞いてくれた、神崎さんだった。
「佐藤さん。これからよろしくお願いします。」
「はい! 面接のときは、ありがとうございました。」
少し声が大きくなった。
神崎さんは軽く頷くと、手元の資料へ視線を戻した。
案内してくれていた先輩が、俺の視線に気づいて笑った。
「神崎と面接で会ったんだ?」
「はい。」
「うちの営業トップだよ。」
示された成績表の一番上に、神崎紅夜という名前があった。
数字を目で追い、思わず神崎さんを見直した。
俺がどんな営業になりたいのか、最後まで聞いてくれた人。
その人が、この部署で一番の成績を上げていた。
同じ部署で働けることが、急に楽しみになった。
会社を出ると、凛から連絡が来ていた。
『終わったよ。予定どおりの時間に着けそう。』
凛も、その日から別の会社の新入社員だった。
入社式のあと、駅で会う約束をしていた。
俺は待ち合わせの前に、いつもの花屋へ寄った。
白い壁と、深い緑色の屋根。
入口の横には、春の花が並んでいた。
店員さんに相談して選んだのは、赤いスイートピーだった。
一本だけ、薄い紙で包んでもらった。
駅に着くと、凛は改札の近くに立っていた。
黒いスーツに、仕事用の鞄。
まだ少し堅いその姿に、俺たちはもう学生じゃないのだと実感した。
「お疲れ、凛。」
「夏樹くんも、お疲れさま。」
凛の前で足を止めると、俺の鞄につけた犬のキーホルダーが揺れた。
凛が一瞬そこへ目を向け、口元を緩めた。
「なんか、社会人って感じ。」
「今日から社会人だからね。」
「そうなんだけど。凛が会社で働くの、まだ想像つかなくて。」
「私も、まだ実感ない。」
凛はそう言って、俺のネクタイへ目を向けた。
「でも、似合ってる。」
その一言で、朝から肩に入っていた力が抜けた。
「……明日も頑張れるわ、俺。」
「まだ一日目だよ。」
いつもの調子に笑いながら、持っていた花を差し出した。
「はい。入社おめでとう。」
凛の視線が、赤い花の上で止まった。
「……私に?」
「うん。いつもの花屋、寄ってきた。」
凛は両手で受け取り、ひらひらした花びらを覗き込んだ。
「スイートピー?」
「そう。花言葉に『門出』ってあるんだって。入社祝いに渡したいって相談したら、お花屋さんが教えてくれた。」
「それで、選んでくれたの?」
「うん。今の凛にぴったりだなと思って。赤いの、きれいだったし。」
花を見つめていた凛が、ゆっくり顔を上げた。
「ありがとう。すごく嬉しい。」
その笑顔を見て、寄ってよかったと思った。
「でも、私、何も用意してない。」
「いいの。俺があげたかっただけだから。」
凛は少し考えてから、俺を見上げた。
「じゃあ、今日のお茶は私にごちそうさせて。」
「え、いいの?」
「うん。夏樹くんも、入社おめでとう。」
改めて言われると、少しくすぐったかった。
俺たちは駅の近くのカフェへ向かった。
隣を歩く凛は、花が人にぶつからないよう、胸元で大事そうに持っていた。
「会社、どうだった?」
「説明を聞いてたら、一日が終わっちゃった。覚えること、たくさんありそう。」
「俺も。あとさ、面接にいた神崎さん、営業で一番の人だった。」
凛がこちらを向いた。
「夏樹くんの話、ちゃんと聞いてくれた人だよね。」
「そう。その人と同じ部署。」
話しながら、面接で伝えたことを思い出した。
相手が何に困っているのかを知って、役に立てる営業になりたい。
これからは、それを仕事にしていくのだ。
「早く、ちゃんとできるようになりたいな。」
「私も。」
凛は頷き、手元の花へ目を落とした。
「お互い、頑張ろうね。」
「うん。そんで、またこうやって話そう。」
違う会社へ通っても、一日の終わりに話せることはある。
明日も凛に聞いてほしいことができそうだった。
入社してしばらく経った頃、神崎さんの外回りに同行することになった。
前日に渡された資料には、訪問先の基本情報だけでなく、取引の経緯や前回の打ち合わせ内容までまとめられていた。
「目を通しておいてください。分からないところは、出発前に確認しましょう。」
「はい。」
知らない言葉を調べ、分からなかった箇所に付箋を貼った。
翌朝、質問をすると、神崎さんは自分の資料を開いた。
その余白には、俺のものよりはるかに多くの書き込みがあった。
確認すること、数字の根拠、別の方法を選んだ場合の条件。
付箋のついた資料も、ほかに何枚か用意されていた。
これだけできる人でも、こんなに準備するのか。
そう思った。
訪問先では、さらに驚いた。
営業トップなら、次々と話して相手を納得させるのだと思っていた。
けれど神崎さんは、相手が言葉を探している間、静かに待っていた。
「導入自体は、進めたいんですが……。」
担当者が資料に目を落とした。
神崎さんは頷き、続きを待った。
「現場から、切り替えの負担が大きいんじゃないかと。」
「特に、どの作業を心配されていますか。」
質問を重ねるうちに、担当者の話が具体的になっていった。
神崎さんは聞き終えてから、用意していた資料を一枚取り出した。
「それでしたら、一度に切り替えず、こちらから始める方法があります。」
担当者が顔を上げ、資料を引き寄せた。
帰り道、俺は我慢できずに口を開いた。
「神崎さん。あの話が出るって、分かってたんですか。」
「可能性は考えていました。ただ、聞くまでは分かりません。」
「だから、何パターンも準備してたんですね。」
「こちらの想定どおりに進むとは限りませんから。」
神崎さんはそう答え、俺を見た。
「佐藤さんは、今日の話を聞いてどう思いましたか。」
すごかった、だけでは終わらせたくなかった。
俺は少し考えた。
「俺だったら、導入したいって聞いたところで、すぐ説明を始めてたと思います。」
相手がまだ迷っていることにも、気づかずに。
「今日、気づけたなら、次に生かせます。」
会社に戻ってから、俺はノートを開いた。
『相手が話し終わる前に、答えを決めない。』
書いてみると、仕事以外でも覚えがあった。
思ったことをすぐ口にして、凛に何度も言い返されてきた。
次に話を聞くときは、ちゃんと思い出そう。
そう思って、その一行に線を引いた。
少し離れた席で、神崎さんはもう打ち合わせ内容をまとめていた。
俺も、あんなふうに仕事ができるようになりたかった。
ノートの次の行に、先方が困っていたことを書いた。
今度は自分の言葉で説明できるよう、一つずつ整理していった。




