第30話「凛って、呼んでもいい?」
八月、内々定をもらった。
電話を切ってから、しばらくスマホを眺めていた。
……決まった。
実感が湧くより先に、凛に電話をかけていた。
「凛ちゃん、今大丈夫?」
「うん。どうしたの?」
「内々定もらった。」
一瞬の沈黙のあと、電話の向こうで息をのむ気配がした。
「本当? おめでとう、夏樹くん。」
その声を聞いた途端、ようやく肩の力が抜けた。
「うわ、めっちゃほっとした。」
「頑張ってたもんね。」
「面接の反省会、何回も付き合ってくれてありがと。」
「私は聞いてただけだよ。」
その、聞いてくれる相手がいることに、何度助けられたか。
「今度、お祝いしよう。」
「え、してくれんの?」
「うん。したい。」
俺はベッドに腰を下ろした。
こういうところだった。
凛は時々、こっちが何も言えなくなる言い方をした。
翌週、二人で駅前のイタリアンへ出かけた。
凛がお祝いだからとご馳走してくれて、そのあとは近くの店をぶらぶら見て回った。雑貨屋で変な顔の犬の置物を見つけると、凛はそれを俺の横に並べた。
「……何?」
「ううん。何でもない。」
絶対、何か思っただろ。
でも、凛が楽しそうだったから、追及するのはやめた。
就活のことを気にせず、次にどの店へ入るかだけを考えて歩く午後は、久しぶりだった。
九月下旬。
久しぶりに大学で顔を合わせた美奈と田中と、昼飯を食べた。
「で、結局買わなかったの?」
「高かったからな。」
「三十分も悩んでたのに。」
「悩んだから買わなかったんだよ。」
美奈が笑った。
田中も、困ったように笑っていた。
「お前ら、買い物行ったんだ?」
「駅で会ったから、ちょっと付き合ってもらったの。」
「ちょっとが二時間だったけどな。」
「でも、田中も見たい店あるって言ったじゃん。」
「まあな。」
そろそろ出るか、となったところで、美奈が田中を見た。
「このあと帰る?」
「図書館。返す本あるから。」
「じゃあ、私も行く。」
「本借りんの?」
「ううん。もうちょっと話したいし。」
田中の手が、一瞬止まった。
「……そっか。」
美奈は当たり前みたいに、その隣に並んだ。
前はもう少し、田中のほうから話しかけていた気がした。
「夏樹は?」
「凛ちゃんと約束。」
「ああ、はいはい。」
「まだ何も言ってなくね?」
「顔に書いてある。」
それは否定できなかった。
今日は、付き合って一年の日だった。
凛との約束まで、まだ少し時間があった。
俺は二人と別れて、一度大学を出た。
向かったのは、駅へ続く道から少し奥まったところにある花屋だった。
白い壁に、深い緑色の屋根。以前、凛にあげたスズランを買った店だった。
「いらっしゃいませ。」
エプロン姿の女性が、花を整えていた手を止めた。
「花束、お願いしたいんですけど。」
「はい。贈り物ですか。」
「彼女に。今日、付き合って一年なんで。」
自分で言って、少し照れた。
女性は柔らかく笑って、おめでとうございます、と言った。
「どんなお花にしましょうか。」
並んだ花を見渡した。
名前が分かるものは、相変わらず少なかった。
「白い、小さい花を入れたいです。前にここでスズラン買ってあげたら、喜んでくれたんで。」
「では、こちらのお花を中心にまとめましょうか。」
差し出された白い小花を見て、うなずいた。
「それでお願いします。あんまり大きくなくて、持ち歩きやすいやつで。」
女性が花を選ぶ手元を見ながら、最初にこの店へ入った日のことを思い出した。
あの時は、凛に似ていると思って、足を止めた。
今日は、喜ぶ顔が見たくて来た。
花を買う理由なんて、付き合う前の俺は考えたこともなかった。
出来上がった花束を受け取って、俺は白い花を見下ろした。
「また、お願いします。」
「はい。いつでもいらしてください。」
「記念日には、ここで買おうかなって。」
口にしてから、それいいな、と思った。
来年も、その次も。何を贈るか迷ったら、ここで凛のことを考えながら選べばよかった。
女性は柔らかく笑った。
「では、その時も一緒に選びましょう。」
「お願いします。俺、花の名前、全然覚えられなくて。」
「お名前が分からなくても、どんな方に贈りたいか教えていただければ大丈夫ですよ。」
それなら、いくらでも話せそうだった。
長くなりすぎないようにだけ、気をつけようと思った。
凛と合流して、大学の中庭へ向かった。
ベンチに座ってから、持っていた紙袋を差し出した。
「これ。一年ありがと。」
凛は中をのぞいて、目を丸くした。
「……お花?」
「うん。」
白い花を中心に、淡い色の花と緑を添えた小さな花束。
凛は両手でそっと取り出した。
「きれい。」
その声を聞いて、花屋まで戻ってよかったと思った。
「前にスズラン買った店で、作ってもらった。」
凛が花束から顔を上げた。
「あのお店なんだ。」
「覚えてた?」
「覚えてるよ。もらった時のことも。」
凛はもう一度、花へ目を落とした。
包み紙の端を整える指が、妙に丁寧だった。
「ありがとう、夏樹くん。嬉しい。」
「……よかった。」
もっと何か言うつもりだったのに、それしか出てこなかった。
凛は花束を膝に置いた。
その隣に座り直すと、風で葉っぱが擦れる音がした。
「懐かしいな、ここ。」
「普段も通ってるけどね。」
「そうだけど。今日は特別じゃん。」
凛が中庭を見渡して、小さくうなずいた。
「……そうだね。」
一年前、ここで凛が好きだと言ってくれた。
あの日の言葉は、今でもちゃんと覚えていた。
「俺さ、あの時、しばらく信じらんなかった。」
「何度も聞き返してたもんね。」
「だって、一回振られてるし。」
凛が少し笑った。
一年経って、こういう顔を見る機会が増えた。
でも、慣れたかと言われたら、全然だった。
「付き合ってみて、思ってたのと違ったことある?」
「……夏樹くん、意外と心配性だった。」
「俺が?」
「私が少し黙ってると、何かあったのか聞くでしょ。」
「ああ……嫌なこと言ったかなって。」
「何もない時もあるよ。」
「最近は、ちょっと分かるようになった。」
「うん。」
凛は膝の上で指を重ねた。
「何も話さなくても、一緒にいられるようになったね。」
前は沈黙があると、何か話そうとしていた。
楽しませなきゃとか、つまんないと思われたくないとか。
今は、隣で凛が本を読んでいるだけでもよかった。
「俺は、凛ちゃんが結構冗談言うって知った。」
「夏樹くんが真に受けすぎるんだよ。」
「好きな子の言うことは真剣に聞くだろ。」
凛が少し視線を落とした。
その横顔を見ながら、前から言おうと思っていたことを口にした。
「……凛って、呼んでもいい?」
凛が顔を上げた。
「呼び方?」
「うん。ずっと凛ちゃんだったけど。」
急に変えたら驚かれる気がして、結局、今日まで聞けなかった。
「嫌だったら、今までのままでいいんだけど。」
「嫌じゃないよ。」
少し間を置いて、凛が続けた。
「……呼んでみて。」
それ、急に緊張するんだけど。
「凛。」
「うん。」
返事をされただけだった。
それだけなのに、俺は口元を手で覆った。
「……やば。思ったより照れる。」
「自分で言ったのに。」
そう言った凛の耳も、少し赤くなっていた。
俺は一度息をついてから、もう一つの話を切り出した。
「じゃあさ。正式に内定もらったら、お祝いに凛の家に招待してよ。」
「うち?」
「ご両親への挨拶付きで。」
わざと軽く言って、笑った。
凛は笑わなかった。
目を丸くしたまま、俺を見ていた。
「……それ、冗談?」
「言い方はふざけたけど、本気。」
俺も笑うのをやめた。
「ちゃんと付き合ってますって、自分の口で話したい。」
凛の指が、膝の上で動いた。
「急に、どうしたの?」
「前から考えてた。でも、就職先が決まってからのほうがいいかなって。」
言葉にすると、さっきまで隠していた緊張が戻ってきた。
「これからも一緒にいたいし。凛の親にも、ちゃんと会いたい。」
凛は黙って俺を見ていた。
冗談っぽく言えば、もう少し格好よく話せると思っていた。
全然そんなことはなかった。
「……まだ早い?」
「ううん。びっくりしただけ。」
凛がゆっくり首を振った。
「そんなことまで考えてたんだ、って。」
「俺だって考えるよ。」
「うん。」
凛は少し笑ってから、うなずいた。
「両親に話しておくね。」
「いいの?」
「私も、会ってほしいから。」
……それは、ずるいだろ。
ほっとしたのと嬉しいのとで、しばらく返事ができなかった。
「ただ、夏樹くんが一番緊張しそう。」
「もうしてる。凛のどこが好きかとか聞かれるかな。」
「面接じゃないよ。」
「それなら、めっちゃ答えられるんだけど。」
「……長くなりそうだから、ほどほどにして。」
俺は笑った。
凛も、困ったように笑っていた。
一年前は、付き合えるなんて思っていなかった。
今は、その先の話をしていた。
「凛。」
今度は、さっきより自然に呼べた。
「来年も、一緒にお祝いしような。」
「その頃は、もう社会人だね。」
「俺、何着てくかで悩まなくなってるかな。」
「そこは今も悩んでないでしょ。」
「じゃあ、凛の親に会う時だけだ。」
凛が小さく笑った。
「来年は、その話も思い出になってるね。」
「俺が緊張して変なこと言った話とか?」
「まだ何も言ってないのに。」
俺も笑った。
来年、どんな毎日を送っているのかは、まだ分からなかった。
でも、その時も隣に凛がいて、今日のことを笑って話せたらいいと思った。




