第29話「凛ちゃん、行ってくる。」
七月上旬。
凛は、六月のうちに内々定をもらっていた。
法務の仕事を目指せる会社だと聞いた。
報告を受けた日は、俺まで嬉しくなって、お祝いに二人でケーキを食べに行った。
それは本当だった。
ただ、自分のメールにまた「ご期待に沿えず」の文字を見つけたときは、しばらく画面を閉じられなかった。
「夏樹、飯冷めるぞ。」
田中に言われて、俺はスマホを伏せた。
学食のカレーは、もう湯気が出ていなかった。
「……食ってる。」
「止まってたけど。」
向かいでは、小川がスマホを見ていた。
「詩織ちゃん?」
「うん。店、ここでいいって。」
「何の?」
「一周年。今度、飯行く。」
俺はスプーンを止めた。
「え、もう一年?」
「うん。」
「早くない?」
「お前が知らなかった期間もあるからな。」
それはそうだった。
「いい店?」
「前に、詩織が行きたいって言ってたとこ。」
「ちゃんと覚えてんだ。」
「そりゃ覚えてるだろ。」
小川は普通の顔でスマホをしまった。
俺が知らないところでも、二人はちゃんと続いていた。
会うたびに何かが起きなくても、一緒に食事をする約束が、次も、その次もある。
「何、三人とも真面目な顔して。」
トレーを持った美奈が、田中の隣に座った。
「小川たちが一周年だって。」
「ああ、お店決まった? 詩織、楽しみにしてたよ。」
「決まった。」
「よかったじゃん。」
美奈は笑って、ストローの袋を破った。
「私も報告。彼氏と別れた。」
田中の手が止まった。
俺も、思わず美奈を見た。
「……いつ?」
「先週。ちゃんと話したんだけどね。」
美奈は氷をストローで押した。
「就活が終わったら、また前みたいに会えるだろって。でも、働き始めたら、今より忙しいかもしれないじゃん。」
「うん。」
「そのたびに、私が無理して合わせるのかなって思ったら……もう、いいかなって。」
いつもの明るい声より、少しゆっくりだった。
「好きだったんだけどね。」
何か言いかけて、俺は口を閉じた。
美奈はカップを置いて、小さく息を吐いた。
「ま、しばらく自分のこと頑張る。」
「……ちゃんと寝れてる?」
田中が聞いた。
「昨日は寝た。先週はちょっと無理だったけど。」
「そっか。」
田中は、それ以上聞かなかった。
美奈も、無理に笑い直したりはしなかった。
俺はそのまま、二人の話を聞いていた。
夕方、凛と駅へ向かった。
「明日、面接だったよね。」
「うん。結構入りたいとこ。」
そう答えてから、少し黙った。
凛は急かさず、隣を歩いていた。
「……最近さ、就活どうって聞かれるの、ちょっと嫌なんだよね。」
「うん。」
「面接行ってるよ、とか、結果待ち、とか。毎回そんなこと言ってる気がして。」
まだ就活を続けている友達は多かった。
内々定をもらったという話も、ちらほら聞くくらいだった。
それでも、誰かに近況を聞かれると、自分にはまだ報告できる結果がないことを意識してしまった。
「別に、相手も普通に聞いてるだけなんだけどさ。」
「うん。」
「俺だって聞くし。なのに、自分が聞かれると、ちょっと身構える。」
凛が俺を見上げた。
「……早く、決まったって言いたいのかも。」
口にしてから、ああ、それかと思った。
凛は少し考えて、口を開いた。
「聞かれるたびに、気になっちゃうんだね。」
「うん。凛ちゃんが決まったのは、嬉しかったよ。でも、俺も何か一つ、いい報告したいなって。」
「面接でうまく話せなかった日も、話してくれていいよ。」
俺は凛を見た。
「……毎回反省会になるかも。」
「いいよ。聞く。」
凛はそう言ってから、続けた。
「早く決めたい気持ちは分かるけど、そのために、行きたいところを諦めなくてもいいと思う。」
「うん。」
「焦らないで。夏樹くんが好きなところにすればいいんだよ。」
翌日、受付を済ませた俺は、案内された椅子に座った。
空調は利いていたのに、手のひらには汗をかいていた。
用意した答えを頭の中で繰り返しかけて、左手首に目が留まった。
凛にもらった腕時計だった。
俺のために選んでくれた時計が、スーツの袖口からのぞいていた。
少し袖を上げて、文字盤を見た。
昨日の凛の声を思い出した。
『焦らないで。夏樹くんが好きなところにすればいいんだよ。』
早く、決まったと報告したかった。
でも、それだけでこの会社を選んだわけじゃなかった。
ここで、やってみたい仕事があった。
今日は、それをちゃんと伝えたかった。
時計の位置をそっと直して、息を吐いた。
凛ちゃん、行ってくる。
「佐藤夏樹さん。」
呼ばれて、俺は顔を上げた。
「はい。」
案内された部屋に入り、一礼した。
人事の担当者の隣に、黒いスリーピーススーツの男性が座っていた。
赤茶色の髪に、整った顔。
こちらを見る目は落ち着いていて、俺が椅子の前に立つまで、静かに待っていた。
「佐藤夏樹です。本日はよろしくお願いいたします。」
「人事の高橋です。本日は営業部の神崎も同席します。」
「神崎です。よろしくお願いします。」
低く、はっきりした声だった。
表情はほとんど変わらなかった。
……この人、めっちゃ仕事できそう。
あと、適当なこと言ったら一発でばれそう。
勧められて椅子に座ると、膝の上で指先が重なった。
袖口に時計の感触があって、少しだけ力を抜いた。
面接は、高橋さんの質問で進んだ。
大学で学んでいることや、アルバイトでの経験。
神崎さんはときどき書類に目を落としながら、静かに聞いていた。
「接客のアルバイトで、お客様に提案する機会があったとありますね。」
高橋さんに聞かれて、俺は頷いた。
「はい。」
「その際、相手の希望をどう確かめていましたか。」
おすすめを喜んでもらった話が、すぐに浮かんだ。
でも、口を開く前に、一度考えた。
聞かれたのは、どう喜ばせたかじゃない。
どう確かめたかだ。
「以前は、自分がおいしいと思うものを、そのまま勧めていました。」
高橋さんは、俺の言葉を待っていた。
「でも、お客様から、二人では食べきれないと言われたことがあって。それからは、人数や、どれくらい召し上がりたいか、苦手なものはないかを先に聞くようにしました。」
「相手に合わせて、聞く内容も考えるようになったんですね。」
「はい。」
高橋さんがメモを取ると、隣の神崎さんが顔を上げた。
「その点について、一つ伺ってもいいですか。」
「はい。」
思わず、背筋が伸びた。
「希望を聞いた結果、最初に勧めようと思っていたものを変えたことはありますか。」
「あります。人気の大皿料理をご案内しようとしたんですが、軽くつまみたいと伺ったので、少量で何品か選べるものをお勧めしました。」
「なるほど。ありがとうございます。」
神崎さんは短く頷き、手元に何かを書き込んだ。
何を書いたのかは、分からなかった。
手応えがある、と言い切れるほどの余裕もなかった。
それでも、聞かれたことには答えられた気がした。
「では、当社を志望した理由を教えてください。」
高橋さんの声に、俺は視線を戻した。
「説明会で、提案したあとも、お客様が実際に使ってどうだったかを大切にしていると伺いました。」
二人がこちらを見ていた。
俺は、そのまま続けた。
「自分が勧めたものを喜んでもらえると、嬉しいです。だから、使ってみて困ったことがあれば、そこまで聞いて、次の提案ができる営業になりたいと思っています。」
言い終えて、膝の上の手を少し開いた。
早く内々定が欲しい。
その気持ちは、まだあった。
でも今は、それよりも、この会社で働きたい理由を聞いてほしかった。




