第3話「猫みたいだな。」
あれから、大学で凛を見かけるたびに声をかけるようになった。
廊下ですれ違えば、
「お、凛ちゃん。」
「その呼び方はやめてください。」
学食で見かければ、
「今日も一人?」
「友達が席を取りに行っています。」
「じゃあ一人じゃないじゃん。」
「最初からそう言っています。」
そんな感じだった。
向こうは毎回少し嫌そうな顔をした。
それでも無視はしなかった。
俺が何か言えば、必ず何か返してきた。
それがおもしろくて、見つけるとつい話しかけてしまった。
四月中旬。
講義が終わり、俺は田中と小川と三人で校舎を出たところだった。
「このあとどうする?」
「俺、学食。」
田中が答えた。
小川はスマホを見ながら、
「俺も。」
と短く言った。
「ていうか小川、今日髪すごくね?」
「いつも。」
「寝癖?」
「セット。」
「寝癖と変わんなくね?」
小川がスマホから顔を上げた。
「夏樹には分かんない。」
「俺には分かんないやつに時間かける意味ある?」
「お前に見せるためじゃないから。」
「それもそうか。」
「納得すんのかよ。」
田中が呆れたように言った。
「佐藤くん!」
後ろから声をかけられ、振り返った。
そこには見覚えのある女の子が立っていた。
確か、同じ学部の二年生だったと思う。
何度かサークルの集まりでも見たことがあった。
「ちょっといい?」
「いいよ。」
そう答えると、田中と小川が足を止めた。
女の子は少し緊張したように俺を見た。
「あの……私、前から佐藤くんのこといいなって思ってて。」
「あ、うん。」
こういう流れには慣れていた。
たぶん、このあと言われることも分かった。
「よかったら、付き合ってください。」
やっぱり。
いつもなら、そのまま「いいよ。」と答えていたと思う。
彼女がいなければ、断る理由もなかった。
付き合ってみて、合えば続いた。
合わなければ別れた。
今まではずっとそうだった。
だから俺は口を開いた。
「いい――。」
そこで、なぜか言葉が止まった。
「……?」
女の子が不思議そうに俺を見た。
俺自身も不思議だった。
別に嫌いじゃない。
かわいいと思う。
なのに。
なんとなく、付き合う気になれなかった。
「ごめん。」
気づけば、そう言っていた。
「今はいいかな。」
「……そっか。」
女の子は少し残念そうな顔をしたものの、
「急にごめんね。」
と言って去っていった。
その後ろ姿を見送っていると、
「……夏樹。」
田中が呼んだ。
「ん?」
振り返ると、田中が目を丸くしていた。
その隣で、小川も珍しく俺をじっと見ていた。
「お前、今断った?」
「断ったけど。」
「告白を?」
「そうだけど。」
「お前が?」
「何回確認すんだよ。」
「いや、だって……。」
田中が小川を見た。
小川も俺を見た。
「初めて見た。」
「何が?」
「お前が告白断るとこ。」
「俺だって断ることくらいあるわ。」
「今までなかっただろ。」
「……そうだっけ?」
「少なくとも俺は知らない。」
田中に言われて考えた。
確かに、彼女がいないときに告白されて断った記憶はあまりなかった。
「なんで断ったの?」
「なんでって……。」
理由を聞かれると困った。
嫌だったわけじゃない。
誰か他に好きなやつがいるわけでもない。
「なんとなく?」
「お前が?」
田中がさらに驚いた。
「何だよ。」
「いや。お前なら『かわいいから付き合う。』とか言いそうだから。」
「失礼だな。」
「今までそうだっただろ。」
「まあ。」
否定はできなかった。
でも今回は、なんとなく違った。
俺自身、よく分からなかった。
小川が俺を見ながら言った。
「珍し。」
「うるせえ。」
俺は二人を置いて、先に歩き出した。
その日の午後。
講義を終えた俺は、なんとなく大学内を歩いていた。
法学部棟の前を通った。
凛はいなかった。
中庭にもいなかった。
学食を覗いても見つからなかった。
「……いねえな。」
口に出してから、自分でも首を傾げた。
別に約束をしているわけでもなかった。
凛に用事があるわけでもなかった。
ただ、今日はまだ一度も喋っていなかった。
スマホを取り出した。
美奈とのトーク画面を開いた。
『美奈。』
すぐに既読がついた。
『なに?』
『凛ちゃん今どこ?』
少し間が空いた。
『なんで?』
『喋ろうと思って。』
『凛と?』
『うん。』
『夏樹さ。』
『なに。』
『凛に嫌がられてる自覚ある?』
『あるよ。』
『あるんだ。』
失礼な。
嫌がられていることくらい分かっている。
そのあと、美奈から、
『たぶん図書館。さっきまで一緒にいた。』
と返事が来た。
『ありがと。』
スマホをしまおうとすると、もう一件届いた。
『そんなに凛と喋りたいなら、甘いものでも食べに連れてってあげれば?凛、甘いもの好きだよ。』
「へえ。」
意外だった。
なんとなく、ブラックコーヒーとか飲んでそうなのに。
俺はそのまま図書館へ向かった。
図書館の前まで行くと、ちょうど凛が出てきたところだった。
黒髪に、今日も落ち着いたモノトーンの服。
遠くからでもすぐ分かった。
小さいから。
「凛ちゃーん。」
俺は手を振りながら、声をかけた。
凛がこちらを見た。
俺だと分かった瞬間、その足が止まった。
「……なぜいるんですか。」
「凛ちゃんに会いに来た。」
「怖いです。」
即答だった。
「ひどくね?」
「私は今まで、あなたに今日ここへ来るとは一言も言っていません。」
「美奈に聞いた。」
凛の眉がぴくっと動いた。
「私の居場所を?」
「うん。」
「わざわざ?」
「うん。」
凛が数秒黙った。
それから、一歩だけ俺から離れた。
「……ストーカーですか?」
「違うって。」
「私の友人から居場所を聞き出して、わざわざ待ち伏せしていたんですよね?」
「待ち伏せはしてねえよ。今来たとこ。」
「大差ありません。」
「あるだろ。」
「ありません。」
凛が歩き始めた。
俺もその横に並んだ。
「どこ行くの?」
「帰ります。」
「もう?」
「講義は終わりましたから。」
「暇?」
「その質問をする人は大抵、ろくな用事がありません。」
「クレープ食いに行かない?」
凛の足が、ほんの少しだけ止まった。
分かりやす。
「……行きません。」
「甘いもん好きなんだろ?」
凛がゆっくり俺を見た。
「美奈ですね。」
「うん。」
「本当に余計なことしか言いませんね、あの人。」
「クレープ嫌い?」
「嫌いとは言っていません。」
「じゃあ行こうぜ。」
「好きだからといって、あなたと食べに行く理由にはなりません。」
「俺がおごる。」
「…………。」
凛が黙った。
俺は思わず笑った。
「今迷った?」
「迷っていません。」
「絶対迷ったじゃん。」
「迷っていません。」
「じゃ、行かない?」
凛はしばらく無言だった。
やがて小さくため息をついた。
「……クレープを食べたら帰ります。」
「行くんじゃん。」
「うるさいです。」
大学から少し歩いたところにあるクレープ屋へ向かった。
店の前には女子大生らしい客が何人か並んでいた。
メニューを見上げた凛の目が、さっきまでより少しだけ真剣になった。
「何食う?」
「……いちご。」
即答だった。
「めっちゃ好きじゃん。」
「何がですか。」
「クレープ。」
「別に。」
「即答だったけど。」
「メニューを見る前から決めていただけです。」
「それ余計好きなやつじゃん。」
凛は無視した。
俺はチョコバナナ、凛はいちごのクレープを注文した。
クレープを受け取ると、凛はベンチに腰を下ろした。
俺もその隣に座った。
凛がクレープを一口食べた。
「どう?」
「おいしいです。」
いつもと同じ無表情。
――のはずなんだけど。
なんとなく、さっきより目が柔らかい。
もう一口。
そのあとも黙々と食べている。
「……凛ちゃん。」
「なんですか。」
「猫みたいだな。」
凛の動きが止まった。
「……はい?」
「普段めっちゃ警戒してるのに、甘いもんあると大人しくなるし。」
「餌付けされた覚えはありません。」
「でも今、めっちゃ機嫌いいじゃん。」
「気のせいです。」
そう言いながら、またクレープを食べた。
「やっぱ猫じゃん。」
「しつこいです。」
凛が俺を睨んだ。
でも手に持ったクレープは離さなかった。
なんか。
こうして見ると、小動物っぽい。
いや。
やっぱ猫だな。
警戒心強くて、近づくと嫌そうな顔するくせに。
好きなものがあると、ちょっとだけ大人しくなる。
俺はクレープを食べている凛を見ながら、なんとなく思った。
――かわいいな、こいつ。
「……さっきから何を見ているんですか。」
「凛ちゃん。」
「それは分かっています。」
「クレープ食ってるなと思って。」
「見れば分かります。」
「うん。」
「……気持ち悪いので見ないでもらえますか。」
「ひど。」
俺が笑うと、凛は呆れたようにため息をついた。
それでも、帰るとは言わなかった。




