第18話「こういうときくらい頼ってよ」
八月二十九日。
俺は駅前の時計台の下で、凛を待っていた。
花火大会のあと、何度か予定を合わせて、ようやく二人きりで出かけることになった。
正確には、凛から「行きたい場所があるので、そこに付き合ってくれるなら」と条件を出されていた。
でも、そんなことはどうでもいい。
二人で待ち合わせをして、二人で出かける。
これは、誰がなんと言おうがデートだった。
待ち合わせの時間が近づき、駅から出てくる人の中に見覚えのある黒髪を見つけた。
「佐藤くん。」
凛が俺の前までやってきた。
いつものモノトーン中心の服装だったけど、今日はハーフパンツにポニーテールだった。
バーベキューの日にも見た格好だ。
やっぱり、めちゃくちゃかわいい。
「凛ちゃん、今日もかわいい。」
「ありがとうございます。」
凛はいつもの平坦な声で答えた。
それから少し間を置いて、付け足した。
「佐藤くんの好みに合わせてきました。」
「え、まじ?」
「冗談です。」
「一瞬めっちゃ喜んだんだけど。」
凛はそっぽを向いた。
ポニーテールの隙間から見えた耳が、少し赤くなっている。
「耳、赤いよ。」
「気温のせいです。」
「そっか。」
「そうです。」
今日はそこまで暑くないけど。
そう思ったけど、言わないでおいた。
凛の視線が、俺の肩に掛けていたバッグへ移った。
バッグには、プールへ行った日に凛からもらった犬のキーホルダーを付けていた。
「……まだ付けているんですね。」
「うん。大事にするって言ったからね。」
「そうでしたね。」
凛はそれだけ言って、先に歩き出した。
表情はほとんど変わっていなかったけど、いつもより少しだけ歩くのが速くなっている気がした。
「それで、今日は凛ちゃんが行きたいところに行くんだよね?」
「はい。」
「どこに行くの?」
「付いてきてください。」
「秘密なの?」
「説明するより、行ったほうが早いです。」
凛の小さな背中を追いかけ、その隣に並んだ。
少し歩いたところで、俺は凛に向かって手を差し出した。
「ね、手つなごうよ。」
「つなぎません。」
「なんで?この前の花火大会ではつないだじゃん。」
「あれは人が多く、はぐれる可能性があったので、緊急性がありました。」
「緊急性……。」
「そうです。」
「じゃあ、手をつないでくれないと、子供みたいに地面に寝そべって駄々こねるよ。」
「どうぞ。」
凛は足を止めることすらなく、そのまま歩いていった。
「……いや、しないけど。」
さすがに二十一 歳にもなって、駅前の歩道に寝転がる勇気はなかった。
それに、凛ちゃんに本気で呆れられるのは困る。
手をつなげなかったのは残念だったけど、おとなしく凛のあとに付いていった。
十分ほど歩いたところで、凛が一軒の店の前で立ち止まった。
色あせた看板が掛けられた、小さな古本屋だった。
「ここです。」
「古本屋?」
「はい。」
「俺、入ったことないかも。」
「でしょうね。」
「ひど。」
店に入ると、古い紙の匂いがした。
天井近くまで本棚が並び、通路は二人で並んで歩くには少し狭かった。
凛は迷うことなく奥へ進んでいった。
俺もそのあとに続いたけど、棚を見ても何がどこにあるのか全然分からなかった。
「凛ちゃん、よく来るの?」
「ここには何度か。本によっては、一般的な書店ではもう扱っていないものもありますから。」
「へえ。」
凛は棚に並んだ背表紙を順番に目で追っていた。
しばらくすると、一冊の本を見つけて手に取った。
「ありました。」
普段よりも少しだけ声が弾んでいた。
「それ、探してたやつ?」
「はい。好きな作家の初期作品です。今出ているものとは作風が少し違うんです。」
「どんな話?」
凛は本を胸の前で持ちながら、あらすじを説明してくれた。
昔起きた未解決事件を、偶然見つかった一通の手紙から追いかけていくサスペンス小説らしい。
登場人物の心情や伏線の張り方、その作家の別の作品との違い。
凛は、いつもよりずっとよく喋った。
「それの何がそんなにいいの?」
「事件が解決して終わりではないところです。真相が分かっても、必ずしも全員が救われるわけではありません。その後まで想像できる余地が残されていて――」
そこまで話して、凛が俺を見た。
「……すみません。興味がないですよね。」
「なんで?」
「さっきから、ずっと私の顔を見ているので。」
「楽しそうだなと思って。」
「この本がですか?」
「本もだけど、凛ちゃんが。」
凛が黙った。
自分が熱心に説明していたことに、今さら気づいたらしい。
本で口元を隠すようにしながら、棚へ視線を戻した。
「凛ちゃん、サスペンスが好きなんだね。」
「はい。謎が少しずつ解けていくところが好きです。」
「じゃあ、俺も一冊読んでみようかな。」
凛が本を下げて、俺を見上げた。
「佐藤くんがですか?」
「なに、その意外そうな顔。」
「普段、本を読まなそうなので。」
「漫画なら読むよ。」
「今は小説の話をしています。」
「じゃあ、初心者でも読めそうなやつ選んで。」
凛は少し考えてから、近くの棚へ移動した。
何冊か背表紙を確認し、その中から一冊を抜き取った。
「こちらなら読みやすいと思います。同じ作家ですが、話もそれほど長くありません。」
「じゃあ、それ買う。」
「まだ内容も説明していませんよね?」
「凛ちゃんが楽しそうに話してたから、ちょっと読んでみたくなった。」
凛は手元の本を見た。
「……そうですか。」
「読み終わったら感想言うね。」
「きちんと最後まで読めたら、聞きます。」
「信用ないなあ。」
俺は凛に選んでもらった本を買った。
そのあとも何軒か古本屋を回った。
最初はどの店も同じに見えたけど、店によって置いてある本の種類や値段が違うらしい。
凛に教えてもらいながら棚を眺めていると、少しずつ違いが分かるような気がしてきた。
何軒か古本屋を回るうちに、凛が持つ袋の数は増えていった。
最初の店で一冊、次の店で二冊。最後に入った店でも、探していた本が見つかったらしい。
店を出たところで、俺は凛に手を差し出した。
「それ、持つよ。」
「結構です。自分で買ったものですから、自分で持ちます。」
「でも、重いでしょ?」
「持てないほどではありません。」
凛は袋を持ち直し、そのまま歩き出そうとした。
「凛ちゃん。」
「なんですか。」
「俺のほうが体も大きいし、力もあるんだから、こういうときくらい頼ってよ。」
「女性だから持てないとでも?」
「そうじゃなくて、俺にできることがあるなら、やらせてほしいってこと。」
凛が俺を見上げた。
「男が女の子にできることって、たぶん、こういう小さいことからじゃん。」
「……そういうものですか?」
「少なくとも、俺はそうしたい。」
俺がもう一度手を差し出すと、凛は少し迷ってから本の入った袋を渡してきた。
「では、お願いします。」
「はい。任されました。」
受け取ってみると、思ったよりも重かった。
「凛ちゃん、こんなに買ってたの?」
「見つけたときに買わないと、次にいつ出会えるか分かりませんから。」
「それは分かるけど、これ持ったまま何軒も回るつもりだったの?」
「その予定でした。」
「俺をもっと使ってよ。今日、何のために一緒にいるの。」
「古本屋に付き合ってもらうためです。」
「荷物持ちも含めていいから。」
「自分から荷物持ちになる人は、初めて見ました。」
凛は呆れたように言った。
けれど、俺が持った袋を取り返そうとはしなかった。
昼になり、俺たちは凛のおすすめのパスタ屋へ入った。
「凛ちゃん、本当にパスタ好きだよね。」
「そうですね。」
「なんで好きなの?」
「手軽だからです。」
「え、それだけ?」
「簡単に作れて、おいしくて、一皿で済みます。本を読みながらでも食べられますし。」
「あはは。凛ちゃん、本が好きなんだね。」
「好きです。」
凛は真っすぐ俺を見て言った。
一瞬だけ、俺に言われたような気がした。
「……それ、やばい。」
「何がですか?」
「俺に好きって言ってるように見えた。」
「自意識過剰ですね。」
「分かってるけど。そんな真剣な顔で言われたら照れるじゃん。」
「本が好きだと言っただけです。」
凛はそう言って、フォークでパスタを巻いた。
でも、頬が少しだけ赤かった。
もしかして、凛ちゃんも照れてる?
そう思ったら、余計に顔が熱くなった。
二人で出かけたいとは言ったけど、まだ半日しか経っていない。
このまま一日一緒にいたら、俺の心臓は持たないかもしれない。
食事を終え、店を出る準備をしていると、凛が買った本の入った袋を持ち上げた。
「このあとは、駅へ戻りますか?」
「うん。凛ちゃんの行きたいところは全部回ったんでしょ?」
「そうですが……。」
凛は少し迷ってから、俺を見た。
「ランチが終わったら、次は佐藤くんが行きたいところに行きませんか?」
「え。」
「お互いの行きたい場所へ行ったほうが、公平だと思います。」
「午後も一緒にいていいの?」
「嫌なら帰ります。」
「嫌なわけないじゃん。行く。絶対行く。」
「反応が大げさです。」
「だって、午後も凛ちゃんと一緒にいられるんでしょ。どこ行こうかな。」
行きたい場所を頭の中で考えていると、テーブルの上に置かれていた凛のスマホが震えた。
凛が画面を確認し、わずかに眉を寄せた。
「どうしたの?」
「詩織からです。」
「なんて?」
「少し待ってください。」
凛はもう一度画面を見たあと、ゆっくりと俺に顔を向けた。
「佐藤くん。」
「うん?」
「今日、誕生日なんですか?」
「あれ、言ってなかったっけ。」
「聞いていません。」
「そっか。今日で二十一。」
「なぜ言わなかったんですか?」
凛の声はいつもと変わらなかった。
でも、俺が誕生日だと知らなかったことを、少し気にしているように見えた。
「言ったら、凛ちゃんが気を遣うかもしれないじゃん。」
「だから黙っていたんですか?」
「うん。それに、誕生日じゃなくても今日は楽しいし。」
凛は何も言わなかった。
「凛ちゃんと二人で出かけられただけで、十分いい誕生日になってるよ。」
「……そうですか。」
凛は視線を落とし、スマホを握り直した。
その画面に何が書かれていたのか、俺には見えなかった。
ただ、少ししてから、凛は俺を見上げた。
「午後に行く場所は、佐藤くんが決めてください。」
「本当にどこでもいいの?」
「常識の範囲内でお願いします。」
「じゃあ、俺が好きなところに連れていく。」
「はい。」
半日でも心臓が持たないと思っていたのに、午後まで一緒にいられるらしい。
しかも、今年の誕生日は凛ちゃんと二人きりだった。
俺にとっては、それだけで十分だった。




