第4話 代わりのいない人
三国合同会議は、アルスハイム王国王都フェルナの大聖堂、その広い会議場で開かれることになった。
出席者は、ヴァリス王国側から国王ヴァリス三世と第一王子オーウェン、秘書官長ヒューゴ。アルスハイム王国側から国王アルスハイム二世と宰相ラウル・アーデンフェルト。そして議題の中心である、セレネ・ヴァレンティア。
さらに立会人として、ラフォス王国、シュタール王国、東方連邦の使節。要するに、大陸中の目が集まる場だった。
会議前夜。宰相府の一室で、ラウルはセレネの前に立っていた。
「セレネ嬢」
「はい」
彼は、いつになく言葉を選んでいた。淡い灰色の瞳が、揺れている。
「明日の会議で、あなたが自らの意思で我が国に留まると宣言するなら、私は全力であなたを守ります。国王陛下も、既にご了承済みだ」
「――ありがとうございます」
「ただ、」
ラウルは、そこで一度、深く息をついた。
「これは、宰相としてではなく、私個人として、お伝えしたいことがある」
セレネは、彼を見つめた。
「戻らないでほしい」
短い、しかしはっきりとした言葉だった。
「あなたを、失いたくない。仕事の相手として、ではなく――」
彼はそこで言葉を切り、そして正直に、続けた。
「私という一人の人間として、あなたに、隣にいてほしい」
セレネは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「ラウル閣下。私は、」
「はい」
「初めから、戻る気はありません」
ラウルの目が、わずかに見開かれた。
「私を、五年間、影として扱った国には、二度と戻りません。私を、名前で呼んでくれた場所を、私は、離れません」
そう言って、セレネは自分から一歩、彼に近づいた。
「明日は、私が、私の言葉で、決着をつけます」
ラウルは、深く息をついた。そして、静かに、しかし確かに、微笑んだ。
「――お待ちしております。あなたの、その言葉を」
翌日、大聖堂の会議場。
高い天井の下、円卓を囲んで各国の代表が着席している。中央にはヴァリス国王とアルスハイム国王が向かい合い、その両脇に王子たちと宰相たち。オーウェンはヴァリス国王の隣で、既にわずかに青ざめていた。そしてセレネは、アルスハイム側の末席に控えていた。
議題が読み上げられる。
「ヴァリス王国は、公爵令嬢セレネ・ヴァレンティアの、母国への返還を要求する」
ヴァリス国王が立ち上がった。
「セレネ嬢は、我が国王太子執務室に長年勤めた、貴重な人材である。ヴァレンティア公爵家にも、改めて話をしたい。彼女には、母国に戻り、王太子妃候補として、その責を再び――」
「――お待ちください」
その時、静かな声が響いた。
セレネだった。
会議場の全員が、彼女に視線を向けた。彼女はゆっくりと立ち上がり、円卓の中央に歩み出た。
「僭越ながら、当人である私から、申し上げてよろしいでしょうか」
ヴァリス国王が、頷く。
セレネは、深く一礼した。そして、顔を上げた。
「私は、二週間前、ヴァリス王国において、第一王子オーウェン殿下より、公の場で婚約破棄を宣告されました。その席で、殿下は仰いました。『地味で華のないお前の代わりなど、いくらでもいる』と」
ヴァリス国王の視線が、隣の席で青ざめる息子に向けられる。オーウェンは、動けなかった。
「私は、その言葉に従い、王国を去りました。ヴァレンティア公爵家は、私の亡命を承知しております」
「セ、セレネ!」
オーウェンが、耐えきれずに口を挟んだ。
「あれは……本気ではなかった! 戻ってこい、婚約は復活させる、王妃にしてやる!」
会議場が、ざわめいた。
セレネは、静かにオーウェンを見た。憎悪ではなく、憐れみでもなく、ただ、静かな眼差しだった。
「殿下。ひとつ、確認させていただきたいことがございます」
「な、なんだ」
「殿下は、この五年間、殿下の名で発行された外交文書を、ご自身でお書きになりましたか」
オーウェンが、息を呑む。
「そ、それは……お前がまとめたものに、私が署名を……」
「では」セレネは、懐から一通の書類を取り出した。「こちらの文書を、殿下は覚えておいでですか」
差し出されたのは、三年前の、ラフォス王国との通商条約改定案だった。
「これは、殿下の名で、殿下の署名と共に発行された文書です。この文書について、殿下、お尋ねします。ラフォス王国が最も譲れなかった条項は、第七条ですが――ここで我が国が譲歩した理由は、何だったでしょうか」
オーウェンは、答えられなかった。
「では、条文第七条には、何と書かれておりましたか」
答えられない。
「では、この文書に殿下が署名なさった日付は」
答えられない。
セレネは、静かに書類を戻した。そして、隣国の宰相ラウルを見た。
「ラウル閣下。恐れながら、この文書について、貴国の魔力痕鑑定士に鑑定を依頼いたしたく」
ラウルが頷き、控えていた鑑定士が進み出た。
この大陸の公文書には、作成者の魔力痕が微量に残る。文書を書いた「本人」を特定できる、司法でも用いられる技術だった。
鑑定士は、その文書に手をかざし、しばらく目を閉じた。
そして、目を開いた。
「この文書の起案者、および本文執筆者の魔力痕は――セレネ・ヴァレンティア嬢のもの。オーウェン殿下の魔力痕は、末尾の署名部分のみに検出されます」
会議場が、大きくざわめいた。
「他の書類も、鑑定いたしましょう」
セレネは静かに続けた。手にした書類は、次々と鑑定にかけられていく。国境警備の陳情への返答、東方交易路の提案書、内政報告書――そのすべてが、セレネの魔力痕を示した。
大陸中の使節たちが、顔を見合わせる。
「――つまり」ラフォス王国の使節が、静かに口を開いた。「我々が三年間、ヴァリス王国の名で交渉していた相手は、実質的には、この令嬢一人であった、と」
「そのようですね」東方連邦の使節が答えた。「我が国も、内々に確認する必要がありますな」
ヴァリス国王が、青ざめていた。彼は、ゆっくりと立ち上がった。
「――要求を、取り下げる」
「父上!」オーウェンが叫んだ。
「黙れ」
老王の声は、鋭かった。
「オーウェン。お前は、王太子の資格を、この場で失った」
「そんな……!」
「セレネ嬢」ヴァリス国王は、深く頭を下げた。「五年間、我が国の名誉を守ってくださったこと、この国王として、心より感謝する。そして、我が息子の無礼を、心より詫びる」
セレネは、静かに、しかし深く、礼を返した。
「――過去のことは、もう」
会議場の空気が、明らかに変わった。
その日、正式に決まったのは、こうだった。
セレネ・ヴァレンティアの亡命を、ヴァリス王国は公式に承認する。彼女はアルスハイム王国において、正式な宰相府書記官長として迎えられる。オーウェン第一王子は、王太子の位を廃され、王位継承権も剥奪される。伯爵令嬢アメリア・ロッシュとの婚約も、事実上、解消となる見込みである。
会議終了後、ラウルはセレネと共に、宰相府の中庭を歩いていた。
夕暮れの光が、白い石畳に長い影を落としている。
「セレネ嬢」
「はい」
ラウルは、その場で立ち止まった。そして、彼女の前に、片膝をついた。
胸元から取り出されたのは、小さな青い石のついた、銀の指輪だった。
「私と、共に生きてください」
セレネは、その指輪を、そして彼を見つめた。
長い沈黙のあと、彼女はゆっくりと、右手を差し出した。
「――お受けいたします」
指輪が、彼女の指に、静かに収まった。
その時、風がやわらかく吹き抜けて、二人の間に舞い落ちる花びらを揺らした。
「明日から、」ラウルは立ち上がりながら、穏やかに言った。「新しい書類が届きます」
「ええ」セレネは微笑んだ。「今度は、私の名前で」




