第3話 誰も署名できない
ヴァリス王国王都、王宮執務棟。
その一室で、第一王子オーウェンは机に突っ伏していた。
「もう嫌だ……」
机の上には、決裁待ちの書類が三十通近く積まれている。ラフォス王国からの親書、東方交易路に関する陳情、国境警備隊からの補給要請、国内貴族からの領地境界紛争の裁定願い――そのどれもが、オーウェン自身の判断と署名を必要とするものだった。
セレネが去ってから、二週間。
最初の三日は、まだよかった。彼女が残していった草案が三通あり、それに署名するだけで済んだからだ。
だが、四日目からは地獄だった。
「代筆者を雇え」とオーウェンは秘書官に命じた。雇った。三人ばかり、書記官として名の通った者を集めた。だが、書けなかった。
いや、正確には「書けた」。日常的な書類は書けた。しかし、外交文書、条約改定案、国際的な陳情への返答――そういった「相手国の内情を踏まえた上での判断」を要する文書に至って、彼らは一人残らず、筆を止めた。
「殿下。恐れながら、これはセレネ様が特別だったのです」
秘書官長のヒューゴが、絞り出すように言った。
「セレネ様は、隣国三か国の宮廷事情と、貿易収支と、王族の派閥まで、すべて頭に入れておられた。あの水準の文書を書ける者は、王国中を探しても……いえ、大陸全土でも、限られております」
「そんな女が、なぜ私の婚約者だったのだ!」
「……そうお選びになったのは、殿下ご自身と、陛下でございます」
オーウェンは頭を抱えた。
その時、扉が乱暴に開いた。
「オーウェン様ぁ! いつまでこんな部屋にこもっていらっしゃいますの? 今日は南の庭園でお茶会の予定でしたのに!」
新婚約者、アメリア・ロッシュ伯爵令嬢だった。真紅のドレスをひらめかせ、頬をふくらませている。
「アメリア、今それどころではない」
「まあ、書類? こんなものは書記官にやらせればよろしいのに」
「その書記官が、書けないのだ!」
「では、」アメリアは首を傾げた。「わたくしが署名だけしてさしあげましょうか?」
「馬鹿を言うな、これは外交文書だ」
「……つまらないですわね」
アメリアは唇を尖らせ、そのまま出て行った。
一人残ったオーウェンは、山積みの書類の一枚を手に取った。ラフォス王国からの親書。西部関税に関する打診。相手はもう三か月、返答を待っている。
彼はペンを取った。
だが、書けない。
何を書けばいいのか、まったく分からなかった。
そして同じ頃、隣国アルスハイム。
宰相府の中庭では、木漏れ日の下で、セレネがラウルと共に書類を確認していた。
「――こちらのラフォスからの通商案、正式に締結されました」
ラウルが差し出した書類には、ラフォス王国の国璽が押されている。彼の淡い灰色の瞳が、珍しくやわらかい光を帯びていた。
「三年越しの案件が、あなたのお陰でひと月で決着です」
「私の力ではありません。閣下の交渉があってこそです」
「あなたは、自分の功績をすぐに他人に譲る癖がおありだ」
ラウルは苦笑した。それは、ここ数日で初めて見せる、明らかに柔らかな表情だった。
「セレネ嬢。少し、休みませんか」
「休む、ですか」
「あなたは朝から夜まで書類ばかり読んでおられる。今夜、宰相府の食堂で、共に食事を」
セレネは目を瞬いた。ラウルが誰かを食事に誘うのは、宰相府始まって以来のことだと、ヴィオラが後に大騒ぎで教えてくれるのだが、その時のセレネはまだ知らない。
「――喜んで」
その夜、セレネは初めて、宰相府の私的な食堂に招かれた。
小さな円卓に、二人分の食事。給仕は下がり、静かな空間に、蝋燭の光だけが揺れていた。
「セレネ嬢」
「はい」
「差し出がましいことをお訊きしますが」
ラウルは、ワインのグラスを軽く回しながら言った。
「ヴァリス王国では、五年間、あなたは、どのように過ごされていたのですか」
セレネは、少し驚いた。誰も、聞いてこなかったことだった。
「……執務室の隅に机がありました。窓のない、書架の間の。そこで、朝から夜まで書類を書いていました」
「食事は」
「執務室に運ばれてきていました。殿下と共に、ではなく」
「休日は」
「……ありませんでした。文書は毎日発生しますので」
ラウルの手が、わずかに止まった。
「……セレネ嬢」
「はい」
「我が国では、そのような扱いはさせません」
彼の声は静かだったが、その奥に、明らかに怒りに似たものが含まれていた。それは、セレネへの憐れみではなく、彼女を「そのように扱った側」への静かな憤りだった。
「あなたは、我が国では、正当な報酬と、休日と、敬意を、必ず受けます」
セレネは、その言葉に、うつむいた。
理由は分からない。喜びとも悲しみとも違う、もっと深いところで、何かがゆるやかに溶けていく感覚があった。
「……ありがとうございます」
やっと、それだけを絞り出した。
翌週、事態は急展開した。
宰相府に、ラフォス王国からの正式な使節が到着した。彼らは、セレネが起案した通商協定を各国に共有した結果、「この草案を書いた人物と、直接会いたい」と申し出てきたのだ。
「セレネ嬢」ラウルは彼女に言った。「よろしければ、この場に同席していただきたい」
「私が、ですか」
「あなたの功績を、公にしたい」
セレネは頷いた。
ラフォス使節との会談は、成功裏に終わった。使節は帰国後、自国の宮廷で語ったという。「アルスハイムには、大陸随一の書記官がいる。名はセレネ・ヴァレンティア。ヴァリス王国から亡命した公爵令嬢だ」と。
その噂は、当然のように、大陸中に広がった。
そして、ヴァリス王宮の玉座の間。
老いた国王ヴァリス三世は、その報告を聞いて、しばらく無言だった。
やがて、彼はゆっくりと立ち上がり、玉座の隣で青ざめている息子を見下ろした。
「オーウェン」
「……はい、父上」
「セレネ嬢は、我が国の書類を、五年間、書き続けていた。そうだな」
「そ、それは……」
「隣国が今、彼女の力で、我々が取り逃していた通商協定を次々と締結している。損失は、年間で我が国の国庫の一割に届く。分かっているか」
オーウェンは、答えられなかった。
老王は、深く息をついた。
「セレネ嬢を、呼び戻せ」
「え」
「ヴァリス王国は、正式に、セレネ・ヴァレンティア嬢の返還を、アルスハイムに要求する。国際会議の場で、だ」
「父上、それは……」
「お前が失った女を、お前が取り戻すのだ、オーウェン。それが、お前に残された、最後の機会だ」
オーウェンは、力なく頷いた。
そして数日後。アルスハイム宰相府に、一通の外交親書が届いた。
差出人は、ヴァリス国王。
内容は、セレネ・ヴァレンティアの、正式な返還要求。
書簡を受け取ったラウルは、それを読み終えると、静かに眉をひそめた。そして、傍らに立つセレネに、その書簡を差し出した。
セレネは、それを読んで、しばらく無言だった。
やがて、彼女は顔を上げた。
その瞳には、もう、あの夜会で見せたような、静かな諦めはなかった。
「――ラウル閣下」
「はい」
「その会議、私も、出席いたします」
彼女の声は、これまでで一番、はっきりとしていた。




