第2話 筆跡を知る人
アルスハイム王国の王都フェルナは、朝の光の中で目覚めつつあった。
石畳の広場を抜け、大理石の階段を上がると、そこに宰相府の白亜の建物がそびえている。ヴァリス王国の重厚な石造建築とは違い、細やかな装飾と大きな窓が特徴的で、朝の光がふんだんに差し込む造りだった。
セレネは、旅装から着替えた淡い水色のドレス姿で、案内の役人に導かれ、宰相執務室の扉の前に立った。
「セレネ・ヴァレンティア様、ご到着です」
役人が扉を開ける。中は思ったよりも広く、壁一面が書架だった。そして、その中央の執務机から、一人の男性がゆっくりと立ち上がった。
若い、というのがまず第一の印象だった。
年の頃は二十代後半。艶やかな黒髪を後ろに撫でつけ、氷を思わせる淡い灰色の瞳が、まっすぐにセレネを見つめている。仕立ての良い深緑の宰相服が、彼のすらりとした体格によく馴染んでいた。
「初めまして、セレネ嬢」
低く、静かな声だった。
「アルスハイム宰相、ラウル・アーデンフェルトです。ようこそ、我が国へ」
彼はセレネの前まで歩み寄ると、うやうやしく手を差し出した。セレネがその手に自分の手を重ねると、彼は指先に軽く口づける。所作のひとつひとつが、驚くほど丁寧だった。
「長旅でお疲れでしょう。ですが、その前に、お見せしたいものがございます」
「見せたいもの、ですか」
ラウルは、部屋の奥の書架へと歩いていった。彼が引き抜いたのは、革表紙の分厚い綴りが数冊。それを机の上に、大切そうに並べていく。
「三年前、ヴァリス王国から我が国に届いた通商条約改定案。二年前、国境警備に関する三国協定の草案。一年前、東方交易路に関する提案書――」
セレネの目が、わずかに見開かれた。
それらは全て、セレネが起案した文書だった。オーウェンの署名が入っているが、内容も文体も、彼女自身がよく知っている。
「これは、私が書いた……」
「はい」ラウルは静かに頷いた。「私は、これらの文書を三年前から研究しております。公文書には作成者の魔力痕が微量に残る。それを辿れば、書いた人物は必ず分かります。あなたの魔力痕は、この三年、一度も途切れていない」
セレネは、思わず息を呑んだ。
「特に通商条約改定案は、我が国の若手官吏の教本として使わせていただいている」ラウルは続けた。「あなたの文書は、無駄がない。要点が的確で、相手国の面子を潰さず、しかしこちらの利益は決して手放さない。私はずっと、この文書を書いた人物に会ってみたいと思っていました」
「……」
「オーウェン殿下ご本人の筆跡と魔力痕は、公式親書で拝見したことがあります。同じ人物の文章とは、到底思えない」
セレネは、自分の手のひらを握りしめた。
五年間、誰にも「よく書けている」と言われたことのない文書たち。オーウェンは中身も読まずに署名し、貴族たちは「王子殿下の名文」と褒め称えた。セレネの名は、どこにも残らなかった。
なのに、この人は。この隣国の宰相は。
ラウルは、彼女のそんな様子を静かに見つめていたが、やがて穏やかに言った。
「セレネ嬢。あなたを我が宰相府の書記官として、正式にお迎えしたい。まずは客員という形で、身分と待遇はこちらでお守りします。ご意向は」
セレネは顔を上げた。淡い灰色の瞳が、まっすぐに彼女を見ていた。憐れみでも、興味本位でもない。ただ、「あなたの力を必要としている」という真摯な光だけがそこにあった。
「――お受けいたします」
セレネは、五年ぶりに自分の意思で、そう答えた。
その日の午後、セレネは早速、宰相府の一室を与えられた。
書記官長の見習いという待遇だが、実質的には特別待遇に近い。窓からは王都の広場が見え、書架には最新の各国資料が揃っている。ヴァリス王宮の、狭くて日の当たらない「王太子執務室の隅の机」とは、比べ物にならなかった。
そして扉が開き、明るい声が飛び込んできた。
「はじめまして、セレネ様! わたくし、ラウル兄様の妹のヴィオラです。よろしくお願いいたします!」
ラウルとよく似た黒髪の、しかし彼とは正反対に朗らかで表情豊かな令嬢だった。年はセレネと同じくらい。宰相府の秘書官を務めているという。
「兄様が、あなたに会えるのを、本当に本当に楽しみにしていたんですのよ」
「……そうなのですか」
「三年前から、あなたの文書を集めていたんですもの。書架を見たでしょう? あれ、全部です全部。妹のわたくしからしたら、もう恋文の収集家みたいなものですわ」
「ヴィオラ」
背後から低い声がして、ラウルが顔を出した。珍しく、ほんのわずかに眉間に皺が寄っている。
「不必要な情報を提供するな」
「あら、事実ですもの。兄様は素直じゃないから、わたくしがお伝えしませんと」
セレネは、思わず口元をゆるめた。
夜、あてがわれた客間で、セレネは早速一つの仕事を任されていた。
アルスハイムが長年抱えていた、西部辺境の関税問題。三か国が絡む複雑な案件で、宰相府でも数年間、叩き台がまとまらずにいたという。
「まずは、目を通していただくだけで結構です」とラウルは言った。「ご意見をいただければ助かります」
セレネは、その資料を一晩で読み終えた。
そして翌朝、彼女は宰相執務室の扉を叩いた。
「宰相閣下。ひとつ、草案を書いてみました」
差し出された数枚の紙を、ラウルは受け取り、目を落とした。
そのまま、動かなくなった。
一枚目を読み終え、二枚目を読み終え、三枚目まで読み進めた頃には、彼の指先がわずかに震えていた。
「……セレネ嬢」
「はい」
「これは、一晩で書かれたのですか」
「はい」
「西部三国のうち、ラフォスの内情まで踏まえた提案になっている。何故これを」
「昨日の資料の中に、ラフォスの前年度貿易収支がありましたので。あの数字を見れば、あの国が今、何を欲しがっているかは、およそ想像がつきます」
ラウルは、しばらく無言でその草案を見つめていた。
そして、静かに立ち上がると、セレネに向かって深く一礼した。
「――ありがとうございます。この案件で、我が国は三年、足踏みしていました」
「お役に立てたなら、光栄です」
彼が顔を上げたとき、その灰色の瞳には、これまでとは違う何かが宿っていた。
「セレネ嬢」
「はい」
「あなたは、正しく評価されるべき人だ。ヴァリス王国は、あなたを失ったことを、必ず後悔することになる」
その夜、宰相府には既に、ラフォス王国からの書簡が届き始めていた。「アルスハイムに新たな才が加わったと聞いた。ぜひ通商案件の再協議を」――そう記された、いくつもの手紙が。
セレネは、まだそのことを知らない。
だが、彼女がいなくなった王宮では。
第一王子オーウェンが、うずたかく積まれた書類の山を前に、途方に暮れていた。
「……ここに、何と書けばいいのだ」
彼の手には、ラフォス王国からの親書があった。返答期限は、明日。
彼はまだ、知らなかった。今この瞬間、自分がまさに書けずにいる、その相手の国の問題を、隣国アルスハイムでは、たった一晩で解決した女性がいることを。




