第1話 華のない婚約者
「地味で華のないお前の代わりなど、いくらでもいるのだ、セレネ」
王宮の大広間、金と白のシャンデリアの下で、第一王子オーウェン・ヴァリスは高らかにそう言い放った。
夜会のざわめきが、波が引くように静まっていく。
公爵令嬢セレネ・ヴァレンティアは、両手を前で軽く重ねたまま、婚約者を静かに見上げた。淡い金の髪を結い上げ、控えめな青のドレスをまとった彼女の姿は、確かに華やかとは言えない。オーウェンの腕に絡みつく伯爵令嬢アメリア・ロッシュの、真紅のドレスと蜂蜜色の巻き毛の隣では、なおのこと。
「聞いているのか。私はお前との婚約を、ここに破棄する」
「――承知いたしました」
セレネは静かにそう答えた。取り乱しもしない。涙ぐみもしない。ただ淡々と、事実を受け入れる声だった。
その落ち着きぶりが気に食わなかったのか、オーウェンの眉が跳ね上がる。
「愛想のない女だ。せめて少しは嘆いてみせろ」
「殿下がお望みなら、いくらでも嘆いてみせますが」セレネは薄く微笑んだ。「それは、殿下の求める『華』でしょうか」
一瞬、オーウェンが言葉に詰まる。その隙に、アメリアがくすくすと笑いながら口を挟んだ。
「まあ、オーウェン様。セレネ様は皮肉がお上手なのね。書類仕事しか取り柄がないと聞いていたけれど」
「そうだ。お前は書類でも整理していればよかったのだ。王妃には、私を輝かせる女こそがふさわしい」
セレネは、ゆっくりと一礼した。
「では、殿下。最後にひとつだけ」
「なんだ」
「王太子執務室の鍵を、お返しいたします」
彼女は袖から小さな銀の鍵を取り出し、近くの侍従に手渡した。それは、王宮でもわずかな者しか持たない、王太子執務室の私鍵だった。
「執務机の右の引き出しに、今週中に決裁が必要な書類の草案がまとめてございます。上から三通目までは、私の署名筆跡で仕上げてありますので、殿下の名でご使用いただけます。四通目以降は白紙のままです」
「……なんの話だ」
「殿下がこれから、ご自身でお書きになる分の話です」
セレネはそう言って、深く優雅な礼をした。
「五年間、お世話になりました」
そして踵を返し、大広間を横切って歩き出した。ドレスの裾が、大理石の床を静かに滑る。振り返らない。振り返る必要はなかった。
背後で、貴族たちのざわめきが再び広がり始めるのを聞きながら、セレネは思った。
――明日から、この王宮の書類は回らなくなる。
王太子執務室の「影の書記官」。それが、五年間、セレネがこなしてきた役目だった。外交文書の起案、内政報告書の要約、他国からの親書の返信案、そして御前会議の資料整理。オーウェンの署名の下にあるすべての文字は、彼女の手によるものだ。
そのことを、オーウェン自身は「地味な女の内職」としか思っていない。
まあ、いい。
セレネは大広間を出て、控えの間へ向かった。そこには、既に旅装に着替えた侍女が一人、静かに待っていた。
「お嬢様。馬車の用意はできております」
「ありがとう、リリー。父上は」
「玄関にてお待ちです」
セレネは頷いて、廊下を進んだ。ヴァレンティア公爵家は、この日が来ることを、実はもう半年前から予見していた。オーウェンが最近、明らかに執務を放棄し、アメリアと過ごす時間を増やしていたからだ。父は言った。
「あの王子は、いずれお前を捨てる。だが、それは我が家にとって、悪くない未来だ」
そして、隣国アルスハイム王国との間に、密かに話が通されていた。
王宮の玄関では、父ヴァレンティア公爵が待っていた。
「セレネ。よくやった」
「父上」
「泣かなかったな」
「あの方の前で泣くのは、」セレネは静かに答えた。「もったいのうございます」
公爵は娘の頭に、そっと手を置いた。
「今夜のうちに国境を越える。アルスハイム宰相府には、既に伝えてある。あちらでは、お前を正しく評価する者が待っている」
「はい」
「セレネ。お前はもう、誰の影でもない」
その言葉に、セレネの胸の奥で、ずっと押し込めていた何かが、静かに、しかし確かにほどけていくのを感じた。
黒塗りの馬車が、公爵邸ではなく国境へ向かって走り出す。窓の外を、王都の灯りが後ろへ流れていく。
同じ頃、王宮の大広間では。
夜会が終わり、上機嫌のオーウェンが自室へ戻ろうとしたとき、秘書官長がおずおずと近づいてきた。
「殿下。恐れながら、明朝の御前会議の資料の件で――」
「セレネがまとめているはずだ」
「三通目までは、確かに。しかし、四通目以降は白紙とのことで」
「なに?」
オーウェンは執務室へ駆け戻った。銀の鍵が返されていることを思い出し、侍従から慌てて受け取り、扉を開ける。
机の上、そして棚。そこには、これまでセレネが毎日整理していた書類の山が、ぽっかりと空白のまま残されていた。決裁待ちの通商案件。近隣三国からの親書。国境警備の陳情。すべて、これから彼自身の手で処理しなければならない書類。
「……なんだ、これは」
オーウェンは、そのとき初めて、自分が五年間、何を「地味な内職」と呼んでいたのかを理解しかけていた。
だが、まだ気づいていなかった。この空白が、これから王国全体を静かに崩していくのだということには。
そして、その頃。
国境の関所を越えた黒塗りの馬車の中で、セレネは一通の書簡を開いていた。差出人の欄には、こう書かれている。
『アルスハイム王国宰相 ラウル・アーデンフェルト』
丁寧な文字で、こう記されていた。
――セレネ・ヴァレンティア嬢。あなたをお迎えする準備は、すべて整っております。私は長年、あなたの筆跡の文書を読んで参りました。ようやくお会いできる日を、心より楽しみにしております。
セレネは、その文字を指先でそっとなぞった。
「……私の、筆跡を」
馬車の外、東の空がわずかに白み始めている。
――新しい一日が、ようやく、始まろうとしていた。




