第5話 正しい場所で
アルスハイム王国、宰相府。
その朝、書記官長室の扉に、真新しい銘板が掲げられた。
『書記官長 セレネ・ヴァレンティア』
これまでの客員待遇から、正式な就任である。ヴィオラは涙ぐみながら銘板を撫で、若い書記官たちは口々に「セレネ様、おめでとうございます」と声をかけていった。
セレネは、その銘板を、しばらく静かに見つめていた。
自分の名前が、扉に書かれている。
そんな当たり前のことが、五年間、なかったのだ。誰にも見えない場所で、誰にも呼ばれない名で、書類を書き続けていた日々。それが今、ようやく、光の当たる場所に立っている。
「セレネ様」
背後から声をかけたのは、ラウルだった。就任式を控えた、正装姿。
「そろそろお時間です」
「はい」
セレネは、彼と並んで歩き出した。左手の指で、青い石の指輪が、朝の光を静かに反射している。
その頃、ヴァリス王国王都。
かつての第一王子オーウェンは、王宮の東翼、王族の私室からは離れた小さな館に移されていた。廃嫡された王族の慣例に従っての処遇である。生活は保障されるが、公的な役割は一切なく、社交界にも顔を出せない。
新しく王太子となったのは、彼の従弟。地味だが真面目な性格で、書類仕事もそつなくこなす青年だった。
一方、伯爵令嬢アメリア・ロッシュは、実家に戻っていた。
派手好きだった彼女は、社交界で急速に居場所を失っていた。だが彼女は意外にも、そのことをあまり嘆いてはいなかった。
「わたくし、王妃になんて、なりたくなかったのよ」
自室で、母親相手にぽつりと呟いた。
「オーウェン様も、書類が嫌だ嫌だと毎日仰っていて、そんなの、わたくしの隣にいる時間じゃなかったんだもの。もう少し、静かな所へ行きたいわ」
アメリアは、これから少しずつ、自分の身の丈に合った暮らしを取り戻していくことになる。
そして、アルスハイム宰相府。
書記官長就任式は、簡素だが厳かに執り行われた。国王からの直筆の任命状を受け取り、セレネは深く一礼した。
式の最後、ラウルが宰相として、公式に紹介した。
「――そして、セレネ・ヴァレンティア書記官長は、私、ラウル・アーデンフェルトの、婚約者でもあります。この場を借りて、皆様にお知らせいたします」
拍手が、静かに、そして温かく、広間を満たした。
その夜、宰相府の小さな私邸で、セレネとラウル、そしてヴィオラの三人でささやかな祝宴が開かれた。
「セレネお義姉様! これからよろしくお願いいたしますわ!」
ヴィオラは、既に彼女を「義姉」と呼び始めていた。ラウルは相変わらず「先走るな」と苦言を呈していたが、その表情はどこかやわらかい。
セレネは、その光景を、静かに見つめていた。
五年前、彼女は、こんな未来を想像していただろうか。
婚約者に「地味で華のない女」と嘲笑され、王宮の隅で書類を書き続けていた自分。名前を呼ばれることも、感謝されることも、休日を持つことも、なかった自分。
その自分が今、正しい場所で、正しい名前で、正しく愛されている。
「セレネ嬢」
ふと、ラウルが彼女に声をかけた。
「もう、『嬢』ではないのでは」
彼はわずかに眉を上げ、それから、めったに見せない照れくさそうな表情で、言い直した。
「……セレネ」
「はい」
「これから、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
セレネは、心から微笑んだ。
翌朝、書記官長室で、セレネは最初の公文書に向かっていた。
アルスハイム王国と、東方連邦との、新たな交易協定案。
彼女はペンを取り、丁寧に、しかし迷いなく、文字を書き始めた。
草案の末尾に、彼女は自分の名を記した。
『起案者 セレネ・ヴァレンティア』
その文字を、彼女はしばらく見つめた。
自分の名前が、書類の上に、はっきりと残っている。
それは、五年間、誰の目にも留まらなかった彼女の名前が、ようやく、正しい場所に刻まれた瞬間だった。
窓の外では、王都フェルナの朝の光が、白い石畳を明るく照らしていた。
遠くから、鐘の音が聞こえてくる。
新しい一日が、始まっている。
そして、その一日は、これから彼女が、自分の名前で、自分の意思で、生きていく日々の、最初の一日だった。
――もう、影ではない。
セレネは、そっと、その言葉を胸の内でつぶやいた。
そして、次の書類に、手を伸ばした。
『これが、私の名前です』
(了)




