第二部:共有の物語 ―内省が言葉になる― 第12.5話後半 「噂の行方」
「そういえば、田中さん、来なくなったって聞きました」
光莉の声が、少し真剣になる。
「ええ、康介さんの部下の方ですよね?」
「康介さんから名刺、もらってたはずです。一度話を聞いてみませんか?」
沙織は少し迷ったが、うなずいた。「そうね」
数日後、光莉と沙織は康介の会社を訪ねた。受付で名刺を出し、田中との面会の約束を伝えた。
面談ブースに通されると、少し疲れた様子の田中が現れた。彼は二人の顔を交互に見て、小さく息を吐いた。
「……あのカフェの話ですか?」
光莉はうなずいた。「もしよろしければ、お聞かせ願えませんか。なぜ、あのカフェに来なくなったのか」
田中はしばらく沈黙した。そして、ぽつりと言った。
「実は……会社で、よくわからない噂が立っていましてね」
沙織と光莉は目を合わせた。
「私が関係しているらしいんです。『特別じゃなくていい』って言葉を、誰かに言ったとか。でも、私はそんなことした覚えがないんです。ただ、あのスピーチを聞いただけなのに」
「それが……重荷になったんですか?」
田中はうつむいた。
「『特別じゃなくていい』って言葉は、確かに私を救いました。でも、そのあと、何かが変わらなきゃいけないような気がして。あのカフェに行っても、何も感じられなかった。他の人が何かを話しているのを見て、『自分には何もない』って思ったら、行くのが怖くなったんです」
光莉は静かに言った。「田中さんも、あのカフェで何かを呟いたことはありますか?」
田中は少し驚いた顔をした。そして、小さくうなずいた。
「一度だけ……『自分は何がしたいんだろう』って。でも、何も変わりませんでした。何も届かなかった。それで、なんだか……自分には無理なんだと思って」
沙織はスケッチブックを開き、老人のスケッチを見せた。
「この人、見覚えはありませんか?」
田中はしばらく見つめて、首を振った。「いえ……でも、どこかで聞いたことがあるような気もします。このカフェにいるって噂の、あの人ですか?」
光莉と沙織は、また目を合わせた。噂。誰も見たことがないのに、誰もが「聞いたことがある」という噂。
田中が、ぽつりと付け加えた。
「そういえば……私、あのカフェで、『会社の噂、どうして広まったんだろう』って、誰かに話してたような気がします。誰に話したのかは、よく覚えてないんですけど」
光莉の胸に、何かが引っかかった。
「もしかしたら、その『誰か』に話したことが、噂になったのかもしれませんね」
田中は少し驚いた顔をしたが、やがて小さく笑った。
「そうかもしれませんね。自分で撒いといて、『噂が立った』なんて思ってたなんて」
その笑い声は、少しだけ軽くなったように聞こえた。
帰り道、沙織がぽつりと言った。
「私、あの人のこと、想像で描いたんだよね。最初は『見た』と思ってたけど、今となっては、見たのかどうかもわからない。でも、描いたのは確かで、描いたことで、あの人が『いた』ことになったのかもしれない」
光莉はその言葉を何度も反芻した。
「そうですね。誰かが話したことが噂になって、噂を聞いた誰かがまた話す。その連続の中で、『誰かがいる』ということが、なんとなくそこにある気がする。それが、このカフェの『何か』なのかもしれません」
沙織は少し笑った。
「じゃあ、私があの人の絵を描いたことも、その連続の一部だったってこと?」
「そうかもしれない。田中さんが会社で話したことも。みんなが『聞いたことがある』と言うことも。全部、この場所の何かと繋がっている気がする」
沙織はスケッチブックを閉じ、優しく撫でた。
「それなら、それでいいのかもしれないね。見えたかどうかよりも、そこに『いた』気がすることが大事なんじゃないかな。この場所では」
夕日が二人の影を長く伸ばしていた。その影は、誰かの影と重なっているようにも見えた。誰も見たことがない、あの老人の影と——。




