第8話 三十本の線
先生が手本を掲げられた。
文字は、一つもなかった。
紙の端から端まで、細い横線が並んでいる。
「今日は、まず筆の運びを確かめます。この太さで、三十本。長さと間隔も揃え、途中で継ぎ足さずに引いてください」
私は手本を見てから、硯へ目を移した。
帳面の線だ。
父の店では、帳面を綴じる前に、私が線を引いていた。品の名、数、値を分けるためのものだ。線が曲がると数字を置くところが狭くなるし、太ければ小さな文字が読みにくくなる。
ここへ来てからは、初めてすることばかりだった。
けれど、これは知っている。
筆に墨を含ませ、硯の縁で余分を落とす。紙の左へ穂先を置き、右へ動かした。
一本。その下へ、もう一本。
始めのうちは、父に何度もやり直しをさせられた。途中で太くなった線を削るわけにはいかない。一枚を駄目にすれば、その紙は帳面に使えなくなる。
墨を足す前に、穂先を整える。
窓の外で鳥が鳴いた。店先でこうしていると、よく母に客が来たと呼ばれたものだった。
三十本目を引き終え、筆を置いた。
隣の静蘭さまは、まだ紙の半ばだった。
私の手が止まったのに気づき、こちらをご覧になる。
「もう、お済みですの?」
「はい」
静蘭さまの目が、私の紙の上を左から右へ動いた。
「……拝見しても?」
紙を少し寄せた。静蘭さまは上の線と下の線を見比べ、それから、ご自分の筆先へ目を落とされた。
卓の間を回っていらした先生が、私の紙の前で足を止められた。
「これは、杏鈴さまが?」
「はい」
「手本どおりです。終わりまで、よく揃っていますね」
先生は紙を持ち上げられた。
麗華さまも、紅玉さまも顔を上げた。
三人の前へ、私の紙が置かれる。
いつもなら、私が見せていただく方だった。
*
「店の帳面に、線を引いておりましたので」
先生に尋ねられ、私は答えた。
「毎日、これほど引かれるの?」
麗華さまが紙の端へ指を添えられた。
「帳面を作るときに、まとめて。初めは、曲がったものばかりでした」
「手元を見せていただけるかしら」
「私の、ですか」
「ええ。墨をつけるところから」
私は新しい紙を出した。
三人が見ていらっしゃる。
礼法の稽古で先生に見られるときより、筆を持つ指が落ち着かなかった。
墨を含ませ、縁で落とす。
一本引く。墨を足さずに、続けてもう一本。
麗華さまは口を挟まず、筆先を目で追っていらした。
紅玉さまはご自分の席へ戻り、すぐに筆を取った。静蘭さまも、硯の縁へ穂先を当てていらした。
「三日後は、今日の線と、手本の書を見せていただきます」
先生が文字の手本を配られた。
「線を揃える運びと、文字の中で太さを変える運び。どちらも稽古なさい」
紙を受け取っても、私はしばらく自分の線を見ていた。
*
その日の夕方、小桃に昼の話をした。
「麗華さまが、私の筆の持ち方をご覧になったのです」
「姫さまの手元を、ですか」
「はい。静蘭さまも、紅玉さまも」
同じことを繰り返していると気づき、口を閉じた。
小桃は茶を置きながら、私の紙を見た。
「お店でなさっていたことが、お役に立ったのですね」
「そうなのです」
私は手本を広げた。
今度は文字を書く。
横画を引き、縦画へ移る。線を一本ずつ引くときには気にならなかったのに、字にすると、どこか窮屈だった。
手本に比べ、横へ押し広げたようになっている。
書き直そうと紙を替えた。その下から、昼の三十本が出てきた。
少し迷って、文字の紙を脇へ置いた。
線を、もう一枚だけ。
麗華さまは、私の手をじっと見ていらした。
三日あれば、同じようにできてしまうだろうか。
私は硯へ筆を伸ばした。
*
次の稽古で、麗華さまの線は前より細くなっていた。
静蘭さまの紙には、等しい間隔で線が並んでいる。紅玉さまは引き終わりで筆を止めず、紙の外へ抜くように動かしていらした。
「昨日、試してみたのですが」
静蘭さまが、先生へ紙を差し出された。
「墨を少なくすると、最後がかすれてしまいますわ」
「引く速さも確かめてください。ゆっくりになったところで、墨を使っていますよ」
静蘭さまは紙を引き寄せ、かすれた線を指でたどられた。
私は自分の紙へ向き直った。
もう一度見せてほしいと頼まれれば、もちろん、お見せする。
けれど、次も私の方が揃っていてほしかった。
それから二日、線だけを引いていたくなると、先に手本の文字を一枚書くことにした。文字の方が、直すところはずっと多かった。
審査の前の晩、小桃が紙を片づけようとしたときにも、線の紙を一枚だけ抜き、最後まで揃っているか確かめた。
*
三日後、私たちは新しい紙に向かった。
まずは、線を三十本。
一斉に筆を取る音がした。
私は墨を落とし、一線目を引いた。
右端まで運んで、筆を上げる。余白を見て、次の位置を決める。
静蘭さまの袖が動いた。
手が止まりかけた。
あと何本お書きになっただろう。
見たくなったが、紙から目を離さなかった。今、筆を置く場所を見ていなければ、間隔がずれる。
十本。二十本。
父の店では、最後の数本がいちばん曲がりやすかった。早く終えたくなって、紙を押さえる手が緩むからだ。
左手を置き直す。
三十本目を引き、筆を硯へ戻した。
顔を上げると、紅玉さまの筆がまだ動いていた。
私は膝の上で手を揃えた。もう書くものはないのに、両手に力が入っていた。
四人の紙が、前の卓へ並べられる。
先生は、一枚ずつ端を揃えてご覧になった。
「線の課題は、杏鈴さまが最もよくできています」
自分の名を聞いて、息をついた。
「太さ、間隔とも、最後までほとんど変わりません。仕上がりも、いちばん早かったですね」
並ぶと、違いがはっきり見えた。
麗華さまの線は、一本ずつなら綺麗だったが、下へ行くほど間隔が狭い。静蘭さまは間隔が揃っている一方、途中から線が細くなっていた。紅玉さまのものは、墨を含ませた直後の一本が、ほかより濃く太い。
私の紙には、同じ線が三十本、並んでいる。
「杏鈴さま」
麗華さまに呼ばれた。
「お見事です」
「ありがとうございます」
顔を上げて答えられた。
静蘭さまは私の紙をもう一度見てから、ご自分の紙を受け取られた。紅玉さまは先生に、墨を落とす加減について尋ねていらした。
私は、持ち帰る紙を丁寧に脇へ置いた。
*
次は、書だった。
同じ手本を前に、同じ文字を書く。
今朝、部屋で書いたものより、少しよくできた気がした。横へ広がりすぎないように気をつけたし、先生に直されたところも覚えていた。
けれど、四人のものが並ぶと、私の字だけが小さく縮こまっていた。
線の一本一本は引けている。それなのに、字の中では、長さも置く位置も決まらない。
麗華さまの文字には、伸びるところと収まるところがあった。静蘭さまのものは、隣り合う字まで気持ちよくつながって見える。紅玉さまの書は、離れた席からでも一字ずつ、はっきり読めた。
先生は麗華さまの書を最初に取り、次に静蘭さま、紅玉さまへと講評なさった。
私の紙は、最後だった。
「杏鈴さまは、一画ずつを揃えようとなさっていますね。次は字の形を見て、長く引くところと短く収めるところを確かめましょう」
「はい」
先生の朱筆が、私の横画の先へ伸びた。
たったそれだけで、字の姿が変わる。
同じ筆を使っているのに。
紙を返していただくと、三人はそれぞれ、ご自分の書と手本を見比べていらした。
私も、朱の入ったところへ目を戻した。
*
稽古場を出る前に、麗華さまが私の脇へいらした。
「線の紙を、もう一度お借りしてもよいかしら」
「はい。どうぞ」
差し出すと、麗華さまはご自分の紙を隣へ添えられた。
「私は、この辺りから狭くなるのね」
静蘭さまも足を止められた。
「線を増やすうちに、紙の残りが気になってしまいますわ」
「私もです。でも、そこを見ると、今引いているところが曲がります」
「……次は、途中で数え直さずに引いてみますわ」
麗華さまは二枚を重ねず、私のものだけを返された。
「次は、もう少し近づきたいわ」
私は受け取る紙の端を、両手で持った。
「私も、練習いたします」
麗華さまの目が、一度私の顔へ戻った。
「ええ」
それだけおっしゃって、付き添いの女官の方へ歩いていかれた。
私は二枚の紙を重ねた。
線では、勝った。
書は、四人の中でいちばん下だった。
部屋へ戻り、小桃に紙を広げて見せると、まず線の方を褒めてくれた。
「こちらは、しまっておきましょうか」
「はい。墨がつかないように、お願いします」
「もう一枚も?」
朱の入った文字を見た。
麗華さまの書は、綺麗だった。もう一度、隣に並べて見たい。
「そちらは、まだ使います」
私は手本を取り出し、硯を引き寄せた。




