第7話 よかったこと
麗華さまの袖が、空気を包むように広がった。
舞の稽古場で、私は正座をしている。
先生の拍子に合わせ、麗華さまは静かに踏み替える。上体が揺れず、袖だけが大きな弧を描いた。最後に布が落ち着くまで、指先は動かない。
「ここまで。今の一節を、皆さまも覚えてください」
私は覚える前に、もう一度見たいと思った。
実際にやってみると、足を揃えれば袖が落ち、腕を上げれば裾を踏みそうになる。
紅玉さまは足の幅を直され、静蘭さまも腕を返す時機を何度も繰り返していた。
麗華さまだって、先生に短い間の取り方を直されている。
三人が初めから何でもできたわけではないのだと、少しだけ安心した。
終わりに麗華さまへ声をかけた。
「お手本の最後の、袖がゆっくり落ちるところ、とても綺麗でした」
「恐れ入ります。まだ先生に直していただいておりますから」
外の声で答えられた。
付き添いの女官の目があったので、私はそれ以上言わなかった。でも、あの一節の話は、もう少ししたかった。
*
次の休日。鏡の中へ入ると、麗華さまが長椅子で足首を回していらした。
「今日は、腕を上げなくてよいのが嬉しいわ」
あの舞の稽古を思い出す。
「先日の最後の一節、本当に綺麗でした」
麗華さまがぱっと顔を上げた。
「覚えていてくださったの?」
「はい。あの、袖が落ちるところです」
「私もあそこが好きなの。見ていただけたか分からなくて」
麗華さまは、本当に嬉しそうだった。稽古場ではあんなに涼しい顔だったのに。
「嬉しいわ」
ためらいのない返事だった。
「みんなの手本をしろと言われて、昔みたいに大失敗したらどうしようかと不安だったわ」
「麗華さまにも舞で失敗されたことがあるのですか」
「もちろんよ。昔は大勢の前で転んだこともあるわ」
「麗華が?」静蘭さまが跳ね起きた。「それ、見たい!」
「もう二度としないわ」
「麗華は後宮ではじめて会った時からなんでもできたからな、想像がつかない」
鏡の中では、互いの上手なところを褒めるのに、家の勝ち負けを考える人はいない。
*
今日の菓子は、胡麻をまぶした丸いものだった。
静蘭さまは、包みを開く前から「甘いやつ?」と尋ね、紅玉さまは茶碗を四つ並べてくださった。
食べ始めてしばらくすると、静蘭さまが座布団を重ね始めた。
「何をなさっているのですか」
「寝るところを改良してる」
「それは、座るためのものでは?」
「座ることもできるから便利なんだよ」
紅玉さまが一枚抜き取った。
「四人で使うものだ」
「あー。高さが揃ったのに」
麗華さまは笑いながら「もう少し座布団を購入して持ち込みましょうか」とおっしゃった。
私は思わず座布団の生地と縫い目を確かめる。
「杏鈴、また値段を計算してるでしょ」
「一枚で、菓子が何日分買えるかと」
「じゃあ、お菓子がいい」
「寝床より食べ物ですか」
「お腹空いたまま寝ても、楽しくないじゃん」
この中での静蘭さまは、優雅さよりも食い気が優先だ。
静蘭さまが顔を上げる。
「杏鈴のお店ができたら、座布団を置いてね」
「お店で寝られると、次のお客さまが困ります」
「じゃあ、寝るところは一つだけで」
「店に寝床を作る約束はしておりません」
紅玉さまが真剣に言った。
「本棚も欲しいな」
「紅玉さままで!」
静蘭さまが身を起こし、麗華さまは「私は窓際の席がいいわ」と仰る。
まだ何も決まっていない店で、三人の席だけが先に決まりそうだった。
「麗華さまは、窓際で何をなさるのですか」
「何もしないわ。茶を飲んで、外を眺めたいの」
「麗華が何もしないって、珍しい!」
静蘭さまが笑うと、麗華さまは少し考えてから答えた。
「だから、あなたたちといるときに練習したいのよ」
私は茶碗を置いた。何もしないことにも練習がいる方なのだ。
「では、窓際にはお茶を飲む席を置きます。でも、長椅子で眠ってしまう方には、次のお客さまに席を譲っていただきます」
「はい、店主!」
静蘭さまの元気な返事に、麗華さまがそれでいいの?と吹き出した。
店主、と呼ばれたのは初めてだった。胸のあたりがくすぐったくなった。
*
お菓子を食べ終えると、静蘭さまが言った。
「ねえ。今日は、よかったことを一つずつ言わない?」
「突然ですね」
「失敗の話ばっかりだと、休日まで疲れるからさ」
私は、自分が何を失敗したかならすぐ言えることに気づいた。
礼で足をずらした。舞の袖を下ろした。返書の結びを直された。
よかったこと、と言われると、急に思いつかない。
「紅玉から」
静蘭さまが促す。
「昨日、遠い的に当てた」
「それ、外でも聞いたよ」
「では、物語の台詞を二つ直した」
「良かったことなの?それ」
紅玉さまは、満足げな顔をするだけで、返事をしなかった。
麗華さまは、舞の難しい一節を初めて通せたことを話された。
静蘭さまは、朝の支度で寝坊しなかったことを誇った。
「それは、当たり前のことでは?」
紅玉さまが首を傾げる。
「いつもより早かったんだから、よかったことでしょ」
「それは、そうか」
「杏鈴は?」
私は茶碗を持ち直した。
「……本を借りたいと、女官に申し上げられたことです」
静蘭さまが顔を上げた。
「読んでみた?」
「はい。まだ、最初の方ですが」
「分かんないところ、あったら聞いてね」
私は頷いた。分からないところには折り目をつけて、次に持ってこよう。
*
七の札を起点に、数字の順につなげていく。
初めは順調だったが、やがて誰も札を出さなくなった。
「赤い六、誰が持ってるの?」
静蘭さまが尋ねた。
「私よ」
麗華さまは、札を持ったまま微笑まれた。
「出してよ」
「黒い十を出してくださったらね」
二人の視線がぶつかった。
私は手元の札を見下ろした。赤い五も、黒い十一も、まだ出せない。
「杏鈴からも言ってよ」
「黒い十を出していただければ、私も助かります」
「麗華じゃなくて、私に?」
「はい」
麗華さまが、札の陰で笑われた。
「杏鈴まで、そっちにつくんだ」
赤い五は、あとでよい。まず黒い十一を出してしまいたかった。
紅玉さまが、私の前へ菓子の皿を寄せてくださった。
「しばらくかかるぞ」
私は礼を言い、一ついただいた。
外の三人は、誰もこんな顔を見せない。
私は、次の休日がまた楽しみになった。
*
翌朝、仙術の稽古場で私は静蘭さまの参考書を開いた。
左には宮中の教本、右には借りた写本。真ん中に自分の練習の紙を置く。
水の冷め方についての頁を読み、先生に教わった符の図へ戻る。まだ理解できないところもある。でも、次に知りたいことが増えていた。
小桃が筆を洗ってくれる。
「姫さま、今日もお続けになりますか」
「はい。もう少しだけ」
そう答える声に、以前ほどの迷いはなかった。




