第6話 遠いところの休日
「生まれる前、ですか」
静蘭さまは、座布団に膝をついたまま頷いた。
「今とは違う名前で、違うところに暮らしてたの。ここの地図にはない、別の世界」
「……夢ではなく?」
「小さいころは夢だと思ってたよ。知らない部屋や道具が、何度も出てきて。大きくなるにつれて、そこで暮らしてたことを、ちゃんと思い出したんだ」
目の前にいる静蘭さまは、私とそう変わらない年頃だ。けれど、別の世界で大人になるまで生きたことがあるという。
信じてよいのか迷った。でも、三人は私をからかう顔ではなかった。
「紅玉さまと麗華さまは、ご存じだったのですか」
「杏鈴が来る前に、聞いた」
紅玉さまが答えた。
「もちろん秘密だ。外の人間には話していない」
「私も、誰にも申しません」
「ありがとう」
静蘭さまが、ほっとしたように笑う。
*
「向こうでは小さな会社で、事務の仕事をしてた」
「会社、というのは?」
「何人かで集まって、商いなんかをするところ。私は、注文を受けたら記録をつけたり、お金の支払いを確かめたりしてたの」
「帳簿をつけるようなお仕事ですか」
「うん。似てるよ。頼まれたものがちゃんと届いたかも確かめるし」
父が注文を受け、私が横で書き留めていた日のことを思い出した。
「一日、座って書いていたのか」
紅玉さまもこの話は知らなかったらしい。
「ずっとじゃないけど、座ってる時間は長かったね」
「肩が凝りそうだ」
「凝ったよ。帰ってから、お風呂で温まるのが楽しみだったな」
「例のお話は、劇場か何かでご覧になるのですか」
「家にいたまま見られたよ。人や景色が映る、薄い板みたいな道具があったの」
薄い板に人が映るというのは想像しづらかった。けれど、目の前の斎心鏡だって、入るまでは信じられなかったのだ。
「だから続きが見たくて、早く仕事を終わらせたい日もあった」
「続きを待っていると、そうなるな」
紅玉さまの声が、急に近くなった。
「でも、見始めてすぐ寝ちゃうこともあるんだよね。起きたら、とっくに終わってて」
「それは、困る」
「あとで見直せたから、大丈夫だよ」
「日曜日も、七日に一度なのですか」
「うん。私には、朝寝坊のできる日だったな」
「向こうのお休みには、何をなさっていたのですか」
「朝寝坊して、洗濯して、買い物して。帰ったら、お茶をいれて、お話を見るの」
「お洗濯も、ご自分で?」
「洗うのは道具がやってくれるの。私は干すだけ。楽なはずだったんだけどさ」
「何かあったのですか」
「干す前にお話を見始めちゃって、気づくと日が傾いてたり」
「先に干せばよい」
紅玉さまが真顔でおっしゃった。
「最初は私も、そうするつもりだったんだよ」
「私、家にいるのが好きだったんだ」
静蘭さまは座布団へ少し深くもたれた。
「お茶とお菓子を近くに置いて、好きなところまで見て。疲れたら横になる。誰にも、姿勢を直しなさいって言われないし」
「そこは、この中での静蘭と変わらないわね」
麗華さまが言うと、静蘭さまは笑って、座布団へ頬を寄せた。
向こうでも、こんなふうに寝転んでいたのだろうか。
明かりをつける道具や、芝居を見る板は、まだうまく思い描けない。けれど、茶と菓子をそばに置いている静蘭さまなら、目の前にいる。
「ご家族も、一緒にお話をご覧になったのですか」
「小さい頃はね。大人になってからは家を出て、一人で住んでた。結婚もしてなかったし」
紅玉さまが茶壺を取り、静蘭さまの茶碗へ傾けた。茶は少ししか出なかった。
「これで、最後だ」
「ありがとう」
紅玉さまが空の茶壺を卓へ戻す。静蘭さまは茶碗を両手で包んだ。
「何でも自分で決められたんだ。夕食を何にするか、何時に寝るか。疲れた日は、使った器を朝までそのままにしたこともあるよ」
「虫が来ませんか」
「来るかもしれないから、その日のうちに洗った方がいいんだよ」
「ご存じなのですね」
「知ってはいるんだよね」
静蘭さまは笑い、それから茶碗へ目を落とした。
「一人だと好きにできるけど、帰っても誰もいないんだよね。だから、ときどき家に連絡してた。声を聞ける道具もあったから」
「遠くても、お話ができるのですか」
「うん。今日、何を食べたとか。そういう話をするだけの日もあったよ」
自分の家へ出した文を思い出した。
宮中の食事には慣れたかと母に尋ねられ、おいしいと書いた。実家の粥を食べたいとは、書かなかった。心配するだろうと思ったからだ。
声が聞けるなら、おいしいと答えたあとで、母は何と返すだろう。
「向こうの、ご家族とは……」
言いかけて、口を閉じた。
今も会えるのですか、と聞きかけて、別の世界なのだと思い出した。
静蘭さまは私の顔を見て、首を振った。
「今は、声を聞く方法も、会いに行く方法も知らないんだ」
茶碗を持ち上げ、一口飲む。
「向こうで一人暮らしをしてた頃は、休みに実家へ帰れたんだよ。でも、今日は家でのんびりしたいから、両親に会うのは次の休みにしよう、って。いつでも会えると思ってたんだね」
南の鏡へ目を向けた。
私には、いつか帰りたい店がある。静蘭さまは、懐かしい家族に会う道さえ知らない。
訊いておきながら、何と言えばよいのか分からなかった。
「私の前世はそんな感じ」
静蘭さまが残りの茶を飲んだ。私も茶碗を傾ける。冷めていたけれど、そのままゆっくり飲み干した。
麗華さまはそれまで静かにしていらしたが、ふいに言った。
「もう一度会いたい人がいる、という気持ちは、分かるわ」
静蘭さまが首を傾げる。
「麗華も、そういうことあるの?」
「ええ。会えるうちに、言っておけばよかったと思うことがあるもの」
「だったら、今言えばいいじゃん」
「……そうね。今、言えるならね」
麗華さまは三人を順に見てから、茶碗を持ち上げた。
その言葉は妙に重かった。でも、私は理由を尋ねなかった。
*
暗くなる前に、紅玉さまが札を持ってきた。
静蘭さまが、前の世界で遊んだことのある札遊びを教えてくださった。仲間のない花の札を最後まで持っていた人が負けになるという。
私は何度も同じ札を引き、静蘭さまから「顔に出すぎ」と笑われた。
麗華さまは、静蘭さまがわざと私の方へ目配せするのを見ていらした。
「静蘭、そこまで教えたら勝負にならないわ」
「だって杏鈴が困ってるじゃん」
「困るところも、遊びでしょう」
「麗華、案外厳しいね」
紅玉さまは札を配り直しながら言った。
「遊びでも、負けるのは悔しい」
「そこは紅玉も同じなんだ」
手元の札を揃えた。
外では一度も負けた顔を見せない三人が、ここでは取られた札を惜しんだり、外れを引いて悔しがったりしている。
私はわざと札を一枚高く持った。静蘭さまがそれを見て、にやりと笑われる。
「杏鈴、それはわざと?」
「何のことでしょう」
札の勝負で、私にも少しだけ悪知恵がついてきた。
*
帰り支度を始めると、静蘭さまが思い出したように言った。
「ねえ、前の世界で何歳だったか、今の年に足したらさ。私なんて、もうおばさんなんだよね」
麗華さまが思わず笑った。
「何を急に気にするの」
「だって、不思議な感じするじゃん」
紅玉さまは真面目に答えられた。
「年を数えるのは自由だ。弓の腕には関係ない」
「それはそうだけどさあ」
笑い声のまま鏡を出ると、向こう側にはいつもの静かな斎室があった。
つまみを元の位置へ戻し、扉の掛け金を外す。
外の廊下では、もう誰も、あんなふうに笑っていなかった。
*
翌朝、先生と双方の女官がいるところで、静蘭さまから写本を差し出された。
「以前、お話ししておりました写本でございます」
受け取ろうとすると、年配の女官が口を挟んだ。
「ほかのお家へ教育を頼ったと見られますと――」
「私がお借りしたいと、お願いしました」
伸ばした手を、引っ込めなかった。
先生が写本を受け取り、頁を繰られた。図や説明を確かめ、静蘭さまへいくつか尋ねてから、私へ向き直る。
「教本と併せてお読みになるなら、差し支えありません」
差し出された本を、両手で受け取った。
「ありがとうございます」
部屋へ戻ると、机に教本と写本を並べた。
今日は、誰に断ってから開けばよいのか、迷わなかった。




