第5話 戻りたいです
持ってきた薄焼きを皿へ移している間に、静蘭さまは横になっていた。
座布団を重ねて肩の下へ入れ、片肘をついている。私が卓に置いた皿へ、寝転んだまま手を伸ばした。
「これ、おいしい」
ぱり、と小さな音がした。
「今までの薄焼きと比べても、ですか」
次の一枚へ伸びた手が止まった。
「今日は、感想もいるんだ」
「小桃と、三種類から選びましたので」
静蘭さまはもう一枚取り、端をかじった。私は返事を待った。
「これが好き。薄くて、しょっぱいのがちょうどいい」
私は残りの包みを開き、皿へ足した。
先ほどまで参考書の頁を熱心に説明してくださった方が、今は袖に落ちた菓子の屑をつまんでいる。
紅玉さまが茶を注ぐと、静蘭さまは座り直した。私にも壁際の座布団を一つ、寄せてくださる。
「杏鈴も、こっち来れば? 壁にもたれると楽だよ」
隣へ座ると、静蘭さまはもう脚を伸ばしていた。私も少し迷ってから、同じようにした。
「昨日は、あのあと符も書いてみた?」
「はい。普通の紙に、形だけですが。忘れないうちにと思って」
「形を覚えるまでは、教本をそばに置いておくといいよ」
静蘭さまが、膝の上で符の形をなぞった。
「昔はよく、ここで迷ったんだよね。教本を見直してるうちに、墨がにじんじゃって」
「筆を紙につけたままで?」
「うん。間違えないようにって、見比べてるうちに」
私にも覚えがあった。実家で帳簿をつけ始めた頃、数を確かめるたびに、字の端へ墨だまりを作った。
「私も、よくやりました。父に、考えるなら筆を置けと言われて」
「私も同じこと言われた。それなのに、またやっちゃうんだよね」
「気づく頃には、大きな黒い点ができているのですよね」
静蘭さまが笑った。私もつられて笑い、壁へ背を預けた。
「杏鈴は、店で注文や帳簿も書いてたの?」
「はい。父はお客さまと話し込むと、あとで書こうとするのです。忘れないうちに、私が横で書いていました」
毎朝、帳簿用の紙にたくさんの罫線を書くのも日課だった。
「頼りにされてたんだね」
「同じことを何度も聞きに来られるので、父の分も書くようになっただけです」
父が帳簿を抱え、店の奥から顔を出すところが目に浮かんだ。笑いながら茶碗を持ち上げる。
「杏鈴は、また店へ戻りたい?」
頷きかけて、止まった。
静蘭さまは、さっきと同じ顔で私を見ていた。家の話を面白がってくれる、この人も皇后候補なのだ。
入宮したときから、ほかの誰かが皇后に選ばれれば、店へ帰れると思っていた。黙って稽古を受け、その日を待っていればよいのだと。
けれど、ここで戻りたいと答えるのは、胸の内で帰る日を待つのとは違う。私は皇后の座を望んでいませんと、同じ座を争う相手に告げることになる。
参考書を一冊借りるだけでも、家の面目に関わると言われた。ましてや、選ばれたくないなどと周侍郎さまの耳に入ったら。父や母まで、問いただされるかもしれない。
静蘭さまは返事を急かさず、茶を飲んでいた。
家が恋しい、とだけ答えればよい。嘘ではないし、それなら誰もおかしいとは思わない。
茶碗の縁へ目を落とした。
そう答えて、また店の話をすればいい。
膝の上に、静蘭さまの参考書の重みがまだ残っている気がした。明日も稽古を受けながら、皇后になりたいふりをする。ここでまでそうするのが、急に苦しくなった。
「……戻りたいです」
静蘭さまが茶碗を下ろした。
「私は、皇后になりたいとは思っていません」
言い終えた途端、喉が詰まった。茶碗を置き、膝の上で両手を重ねた。
紅玉さまが菓子へ伸ばしかけた手を止めていた。長椅子の麗華さまも、こちらを見ている。
三人は、私よりずっと前から皇后候補になるために学んできたはずだ。その隣で初歩から教えてもらいながら、私は別の暮らしを望んでいる。呆れられても仕方がなかった。
「自分で決めて帰れるわけではないのは、分かっています。でも、いつかは、店を……自分の店を持ちたいのです」
言葉を重ねるほど、言い訳に聞こえそうだった。
膝の上の指を握り込んだ。周侍郎さまにも、父や母にも言えなかったことを、先にこの三人へ話してしまった。
静蘭さまは、しばらく私を見ていた。
「お父さんのお店を継ぐんじゃなくて?」
「……はい」
そこを尋ねられるとは思わず、返事が遅れた。
「小さくてもよいので、自分で品物を選んで、並べてみたいのです」
「紙と筆のお店?」
「はい」
咎める声ではなかった。どんな店なのか、本当に知りたいらしい。
「紙を選んだら、座って試し書きができるところを作りたいです。筆も、手に持つだけでは分かりませんから」
「うん。書いてみたら、思ってたより硬いことあるよね」
「そういうのを、ゆっくり確かめてもらえたらと。お茶も出して……買い物の途中で、ひと息つけるような店にしたいです」
言いながら、置きたい棚や卓を思い浮かべた。まだ場所も決まっていない。父に相談したことさえない。それでも、頭の中では何度も、入口から奥まで歩いていた店だった。
静蘭さまが手元の茶碗へ目を落とした。
「買うものが決まるまで、座ってていいんだね」
「決まったあとも、少しなら」
「いいね。じゃあ、椅子には柔らかい座布団を置いてほしいな」
顔を上げた。
静蘭さまは、座布団を置いてもらえるかどうかを待っている。まだ場所さえ決まっていない私の店で、くつろぐつもりでいるのだ。
「……寝てしまいませんか」
「寝るかも」
どうやら、もう寝るつもりでいらっしゃるらしい。
「そのときは、お茶が冷める前に起こします」
「うん。お願い」
お茶は少し冷めていた。飲み込むと、ようやく喉のつかえも下りた気がした。
帰れる日が決まったわけではない。明日も稽古はあるし、周侍郎さまから次の文が来れば、返事に悩むだろう。
それでも、頭の中にしかなかった店に、初めてお客さまが来たようだった。
*
静蘭さまが茶碗を置き、眠そうに伸びをした。
「お茶もあって、お菓子もあって。こういう日曜日がいちばんいいよね」
「日曜日、とは?」
私が聞くと、静蘭さまの手が止まった。
「ああ。お休みの日のこと。前にいたところでは、そう呼んでたんだ」
「前にいたところ?」
紅玉さまが冊子を閉じ、麗華さまも体を起こされた。
静蘭さまは少し考えてから、私の方へ膝を向けた。
「うん。杏鈴にも、話しておこうかな」
私は背筋を伸ばした。けれど、麗華さまはもう何も言わなかった。
静蘭さまがゆっくり口を開いた。
「私ね、今の私に生まれる前のことを覚えてるんだ」




