第4話 お茶が冷めないうちに
仙術の稽古場には、小皿が四つ並んでいた。
私の皿だけ、まだ水が温かい。
麗華さま、静蘭さま、紅玉さまは、すでに符を使わず水を冷やせる。今は氣の使い方を細かく調整する稽古をしている。私は昨日、自分で書いた符の中に氣がどう流れるかを感じ取るところからだ。
「杏鈴さま。指を軽く添えて」
先生に教わり、符へ指を置く。
小さな脈のような感触がした。逃すまいと指に力が入った途端、紙が少したわみ、感じていた流れが途切れた。
「強く押さえると、氣の感覚を乱してしまいます。追いかけず、待ってみてください」
「……はい」
一枚目の符は使い終わってしまった。
符用紙も墨も、特別に仕立てた高価なものだ。家の店なら、その小さな一枚だけで何日分の食費になるか考えてしまう。
二枚目に指を添えた。今度は息をゆっくり吐き、軽く触れる。
脈が一つ、もう一つと動いた。
「この指のところまでは、分かりました」
「ええ。その感覚を覚えておきましょう」
小皿の水が少し冷たくなった。私は、紙の値段を考えて、内心ほっとした。
*
稽古が終わると、静蘭さまが声をかけてくださった。
「杏鈴さま。基礎からお学びになるのでしたら、私の覚書がちょうどよろしいかもしれませんわね」
静蘭さまが自分で試し、考えたことをまとめた仙術の参考書らしい。仙術を行う際には、発現させる現象を詳細に想像するとよいそうだ。
その想像の助けになるように、たとえば湯を浅い皿に移すと早く冷めること、水の量が多ければ冷やすのに力がいること、そうした身近な例を図に描いてあるという。
宮中の教本には、符の書き方も氣の使い方もきちんと載っている。先生も丁寧に教えてくださる。
それでも私は、その本を読んでみたかった。水を冷やすことが、紙に描かれた図の外でどんなふうに起きているのか知りたかったからだ。
「ぜひ、お借りしたいです」
「それなら、あとでお届けしますわ」
けれど、その日の夕方、写本は届かなかった。
取り次ぎの女官に尋ねると、静蘭さまの側から写本を届ける申し出はあったものの、私の付き添いの女官が受け取りを断ったという。ほかの候補から教育を受けたと見なされれば、私の家の面目に関わるからだそうだ。
「私は、借りたいのですが」
「お気持ちは分かります。でも、お家の面目を考えますと」
私の家の面目が、なぜ本一冊で変わるのだろう。
しかし女官は、受け取らない方が私のためだと繰り返した。
私は、次に自分宛ての品が届いたら、断る前に知らせてほしいとお願いした。それだけは聞き入れてもらえた。
*
斎戒までの夜、周侍郎さまへの返書を書いた。
三人の好き嫌いも不得手も書かなかった。私がどの授業で遅れているか、何を習ったか、暮らしのことだけを書いた。
翌日の鏡の中では、さっそくその話になった。
「周侍郎には、何と返したの?」
麗華さまに尋ねられたので、私は手紙の内容を伝えた。
「三人のことは、ご本人にお尋ねいただく方がよいと思いまして」
「それでいいと思うわ」
麗華さまは少し安心したようだった。
「念のため、周侍郎とのやり取りを、後宮の外にいる私の部下に確かめさせたの。あなたの返事の写しも見せてもらったわ」
私は茶碗を置いた。部下?確かめさせた?
「……私の文を、お読みになったのですか」
「ええ。あの方がどのような方かまだわかりませんが、自分の家のためなら、候補を駒のように使う方も少なくないので」
「父と母に出した文も、ですか」
「いいえ。周侍郎とのやり取りだけよ」
少しだけ息がつけた。けれど、安心したとは言い切れなかった。
周侍郎さまへ誰かの秘密を知らせたくないから、私は何も書かなかった。
その手紙を、今度は麗華さまが私の知らないところで読んでいた。
「守ろうとしてくださるのは、ありがたいです。でも、先にお話しいただきたかったです」
麗華さまはしばらく私を見た。
「何かあってからでは遅いのよ」
麗華さまの声が鋭くなった。私は反射的に背筋を伸ばした。
「周侍郎は、あなたの手紙を都合よく使うかもしれない。そうなったら、取り返しがつかないでしょう」
「でも、私の手紙です」
守ろうとしてくださったことは分かる。それでも納得できなかった。
「読まれるなら、先にお話しいただきたかったです」
麗華さまはしばらく黙り、茶碗を置いた。
「……そうね。無断で読んだことは謝るわ。ごめんなさい」
静蘭さまが座布団を抱き直す。
「麗華、杏鈴がびっくりするの当たり前じゃん」
「……分かっているわ」
すぐにすべてを気にしなくなったわけではない。それでも、言ってよかったと思った。
麗華さまに言い返しても、ここから追い出されなかった。
*
「そういえば、静蘭さま。参考書のことなのですが」
静蘭さまが顔を上げる。
「あ、いらなかった?」
「いいえ。ぜひ読ませていただきたいです」
「よかった。杏鈴には必要ないって断られたって聞いたから」
「私は断っていないのですが」
話を聞くと、静蘭さまの側でも、家の面目がどうこうと言われたらしい。
「本一冊貸すだけなのにね。うちの家が杏鈴の家を教えることになる、って」
「こちらでも、借りると静蘭さまの家に頼ったことになると言われました」
「私が貸したくて、杏鈴が読みたい。それだけでいいのに」
その言い方が、胸にすとんと落ちた。
静蘭さまが籠から写本を出した。
「今日、直接聞こうと思って持ってきたんだ。でも、ここで渡して、明日どこから持ってきたのか聞かれたら困るよね」
表紙を開くと、湯を入れた深い器と浅い器が描かれていた。矢印で熱の移る向きが示されている。
「この違いは、家でも見たことがあります」
「そう?」
「粥が熱いとき、広い皿へ移すと早く食べられるのです」
「そうそう。あれって皿や空気との接触面積が大きくなるから、熱が移動するのも早いんだよ。そういう起きてることを思い浮かべると、氣の使い方も考えやすくなるんだよね」
別の頁には、同じ量の水をどれだけ冷やすか、静蘭さまが試した結果が細かく並んでいた。
この一冊を書くために、どれほど手を動かしてきたのだろう。
私は目の前の人を見た。先ほどまで座布団に顎をのせていた人が、現象のことになると次々と説明してくれる。
「これを全部、静蘭さまが?」
「うん。気になったことを試して、後でまとめたんだ」
「素晴らしいと思います」
「えへへ。ありがとう」
得意げな声につられ、私も少し肩の力が抜けた。
写本を持ち帰りたかったが、鏡の中から受け取ったことが分かれば、外で説明に困るかもしれない。
「明日の稽古で、先生の前でもう一度お借りします。女官にも、私が望んだことだと伝えます」
「うん。その方がいいね」
私たちはそう決めた。鏡の中から写本を持ち出せば、女官に渡し手を説明できなくなる。ここで話したことは秘密にしつつ、外では堂々と手渡していただくことにした。
内で決めて、外では本人の言葉で話す。
それなら、できそうだった。




