第3話 弓術と物語
紅玉さまの三本目の矢は、先の二本とほとんど同じところに刺さった。
的は私たちの使うものよりずっと遠い。先生が終わりを告げると、私は心から息をついたが、紅玉さまは矢筒へ伸ばしかけた手を止めた。
「もう終わりか」
「まだ射ちたかったのですか」
思わず尋ねると、紅玉さまは小さく頷かれた。
「今日は調子がよかった。もう少し続けたかった」
私の指は、まだ弓弦の感触を残してじんじんしている。
「私は、あと一本と言われても腕が上がりません」
「そうか」
紅玉さまは真面目に答え、私の手元を見た。
「肩に力が入りすぎていた。次は、弦を引く前に息を吐くとよい」
「ありがとうございます」
この方は外でも親切だ。でも、必要なことしかおっしゃらない。
*
午後は返書の講義だった。
花見への招待を、先約を理由に丁重に断る。たったそれだけなのに、私は「お招きいただき」の続きで筆を止めていた。
紅玉さまは簡潔な文を書き終え、筆を置いている。礼も事情も過不足なく記され、先生もすぐ頷いた。
麗華さまと静蘭さまは、結びの言葉をなお相談していらした。
「花を思いつつ過ごす、では、先約の方に失礼かもしれませんね」
「そうね。惜しむ気持ちが強すぎるのも、かえって不自然かしら」
私には、どちらの文も十分立派に思えた。
紅玉さまはそれを聞いても、筆を取ろうとはしない。
「紅玉さまは、直されないのですか」
「伝えることは書けた」
私は自分の紙を見た。朱墨で直されたところが、ほとんど全文にある。
「それができれば、よいのですが」
紅玉さまは文学にはそれほど熱心ではないようだ。
熱心でなくとも私と違い、朱墨で直されたところはなかった。
*
斎戒の日が来た。
小桃が菓子を包むのを、私は横から見ていた。
「一つ多くしていただけますか」
「姫さま、お召し上がりになる分でございますか」
「……はい。もし余れば、小桃にも」
四人で分けるとは言えない。小桃は少し不思議そうな顔をしたが、余分に一つ包んでくれた。
南の斎室へ入る。銀のつまみを花模様に合わせ、古い句を唱えた。
鏡の向こうに足を下ろすと、すでに紅玉さまが低い卓へ紙を広げていらした。
「来たか。今日は静蘭に物語を話してもらう約束の日だ」
紅玉さまの声は外と同じ低さだったが、言葉が続いた。
「杏鈴も一緒に聞こう。絶対気に入るはずだ、面白いぞ」
「紅玉、いきなりで杏鈴が困っているわ」
どうやら、静蘭さまの知っている恋物語を二人に話したところ、二人が、特に紅玉さまが気に入り、もっと話してくれとねだったらしい。
しかし、ずいぶん長い話らしく。話し続けるのを嫌がった静蘭さまが、数回に一回だけ物語を話すと決めたのだ。
「杏鈴がいるから、最初から話そうか」
静蘭さまが座布団に寝転んだまま言った。
「ああ、物語を書き起こした文の確認にもなる」
なんと、紅玉さまは静蘭さまの物語を紙に書き留め、冊子にまとめていると言う。
あの弓の名手が、恋物語の続きのために待ち構えている。
妙な光景だった。
*
静蘭さまは、遠いところで見たという花売りの娘の話を始めた。
娘は厨房の見習いの青年と、売れ残りの花のことで喧嘩をする。青年は、しおれる前に安く売ればよかったと言う。娘は返事をせず、花籠を抱えて帰ってしまう。
翌日、青年は焼き菓子を持ってくる。半分を差し出す前に、昨日は悪かった、と言った。
「この二人が、夫婦になると思うだろ?」
「紅玉!先を勝手に話さないで」
「すまん、つい」
静蘭さまは話を続けた。
ある日、身なりのよい男がやって来て、小さな白い花を一束買った。
「どんな花だ」
手元の紙を確認しながら紅玉さまがすぐ尋ねる。
「白くて、小さいやつ。名前は……忘れちゃった」
麗華さまが首を傾げる。
「花売りの話なのに?」
「名前じゃなくて、恋の話だもん」
紅玉さまは納得しない顔だったが、余白に小さく「白い花」と書いた。
男は次の日も、その次の日も、花を一束だけ買いに来た。
「それだけ毎日買うなら、まとめて頼んだ方がお得ではありませんか」
私が言うと、静蘭さまが目を丸くした。
「杏鈴、そこ?」
「毎日来られたら、店の方も嬉しいでしょう。でも一束ずつなら、届ける手間も……」
「恋のお話だってば!」
紅玉さまが筆を置いた。
「会う口実が欲しいのだろう。まとめて買ったら、次の日に来る理由がなくなる」
「ああ、なるほど」
それなら、花代は毎日顔を見に来るための代金なのだ。
「随分と高くつく恋ですね」
言うと、麗華さまが口元を押さえられた。
「でも、花を売る娘にはよいお客さまでしょう」
「はい。それは間違いありません」
紅玉さまは真剣な顔で余白に何か書き足している。
*
娘が幼いころに食べた菓子のことを話すと、身なりのいい男は母親を知っている料理人が自分の屋敷にいると教えた。
「三日後に迎えを寄越すから、家へ来ないかと誘うの。娘は喜んで、見習いの青年に話すのだけれど」
そのとき青年は、娘に「屋敷へ行くべきではない。その男は詐欺師か悪党だ」と言ってしまう。
「そこがいけない」
紅玉さまが強い口調で言いながら筆を止めた。
「娘が母を知る人に会いたいのだろう。邪魔をするのはよくない」
「あら、真っ当なことを言っていると思うけど。金持ちが町娘を家に招待するなんて、警戒するべきではなくて?」
麗華さまは青年の意見に賛成らしい。
むむ、と紅玉さまが唸った。
「だが、会ったこともない者を悪く言うのは良くないと思う」
「それはそうね」
こんなに感情が豊かな紅玉さまを見るのは初めてだった。
*
やがて静蘭さまの返事が途切れた。
座布団に頬をのせたまま目を閉じている。最初は考えているのかと思ったが、規則正しい息が聞こえた。
「寝てしまわれたのですか」
「語り続けたからな」
紅玉さまが冊子を閉じかけた。
「続きは、また今度にしましょう」
麗華さまが唇へ指を当てる。私たちは声を落とした。
しばらく、筆の音だけが聞こえた。紅玉さまは忘れた箇所を自分で補い、書き足したところへ小さな印をつけていく。
「紅玉さまは、書くこともお好きなのですね」
「書き起こしておけば、何度でも楽しめる」
そう答える顔は、弓場で見たときよりずっと真剣だった。
私は、物語が書かれていくところを見るのも好きになりそうだと思った。
*
鏡の縁が白くなり始めると、麗華さまが静蘭さまを起こした。
「起きて。もう帰る刻よ」
「……あと少し」
「鏡は待ってくれないわ」
静蘭さまはようやく体を起こし、耳飾りを探した。
「こちらです」
私が布の上に置かれたものを渡すと、静蘭さまは礼を言って耳につけた。
「来週は、娘が料理人に会うところだな」
紅玉さまが念を押す。
「覚えてるって」
「では、男が買った花の名は?」
「……それは、来週も分からないと思う」
紅玉さまの口元が少し上がった。
「白い花、と書いておく」
「最初から、そうしてよ」
冊子には、もうそう書いてあった。紅玉さまはその頁を静蘭さまへ見せずに閉じた。
外へ出ると、三人はすぐにいつもの姫君へ戻った。
廊下で紅玉さまとすれ違い、小桃が小声で言う。
「紅玉さまは、いつお目にかかっても、凛としてお美しいですね」
「……そうね」
私は、さっきまでの紅玉さまの姿を思い出して、違う感想を抱いていた。
*
部屋へ戻ると、周侍郎さまから文が届いていた。
実家の後援者であり、私が後宮へ入る際にも力を貸してくださった方だ。
暮らしには慣れたかという挨拶のあとに、三人の様子を知らせるようにとあった。
何を好み、何を不得手としているか。どんな品や便りが届くか。小さなことでもよいから、すぐに返事を、と。
私は筆を取った。
紅玉さまが弓を得意とすることなら、誰でも知っている。
でも、恋の物語を、あんなにも真剣に気にしていることは、外の人は知らないだろう。
静蘭さまが座布団へ頬をのせたまま眠っていたことも、麗華さまが菓子の取り分で本気になったことも、書こうと思えば書けてしまう。
それは私にとって、大切な時間の一部だった。
紙を前にしたまま、しばらく考えた。
どこまでなら、書いてよいのだろう。
紅玉さまが私に弓の引き方を教えてくださったことは書ける。けれど、物語の青年の行動に真顔で怒ったことは、書きたくなかった。
それは弱みではなく、あの方が私に見せてくださった顔だ。私が他人へ渡してよいものではない。




