第2話 鏡の向こうでは、帯を緩めて
紅玉さまは本を脇へ置き、私のために座布団を一つ引き寄せた。
卓には、それぞれの籠から出した菓子の包みが開かれていた。干した杏に、胡桃を混ぜた焼き菓子。
差し出された座布団へ腰を下ろした。籠から茶碗を出し、卓に置くと、麗華さまが茶を注いでくれた。
「はい、これも食べて」
静蘭さまが、干した杏の皿をこちらへ寄せる。
紅玉さまは焼き菓子をひとかけ口へ運んだ。
籠を膝に抱え直し、三人を見た。
「私を、お叱りになるのでは」
「何について?」
麗華さまが聞き返した。
「作法のこととか。皆さまに、ご迷惑をおかけしていることとか」
麗華さまは茶壺を置いた。
「作法は明日の講義で教わりましょう。ここでは、私も人に言えた姿ではないもの」
「でも、どうして私を」
ここに呼んだのでしょうか、と続けたかったが声に出せなかった。
一拍置いて、麗華さまが口を開いた。
「昨日、小桃という側仕えの女官をかばったでしょう」
私の指が、籠の縁をつかんだ。
「お気づきだったのですか」
「あれだけ大きな声でかばったら、分かるわ」
冗談めかした言葉だったが、麗華さまの声は真剣だった。
「私の顔色をうかがうより、侍女をかばう方を選んだでしょう。あなたと、話してみたくなったの」
「私も、呼ぼうって言ったんだよ」
静蘭さまが言った。
「私も、杏鈴を呼ぼうと言った。廊下で会うたびに道を譲られていたからな。話しかける前に、いなくなる」
静蘭さまは麗華さまと紅玉さまを見た。
「私たちが怖かったんでしょ。たぶん」
「いいえ」
即答した。
麗華さまが黙った。
静蘭さまは口を挟まずに待った。
「……少し」
「少しか」
紅玉さまが首を傾げた。
返事の代わりに茶を飲んだ。
籠を脇へ置き、膝の上で握っていた指をほどく。
「皆さま、仲がよろしいのですか」
「悪ければ、この格好では会わないわ」
*
「家の者には、鏡の中でこうして会っていることを知られていないのですか」
菓子の包みを畳みながら、尋ねた。
麗華さまは首を振った。
「ええ、このことは私たちしか知らないわ」
「ここで会ってるって知ったら、きっと禁止されると思うな」
静蘭さまが言った。
「一緒にお茶を飲んでいるだけなのにですか?」
「それを証明できない。外では供をつけずに妃候補同士が会うことすら難しいのだから、許されるとも思えない」
紅玉さまが言った。
確かに、私も一人で部屋から出ようとしたとき、大慌てで小桃がついてきたことがあった。
「でも、どうして別々の鏡から、同じ部屋へ出るのですか」
「四面とも、もとは一枚だったんだって。普通の向きなら一人ずつ別の場所へ入るけど、昔の向きと結びの句を揃えると、こっちにつながるの」
「静蘭が向きを揃えてみようと言って、私が古い祭具図で位置を確かめました」
麗華さまが続けた。
「私が先に入った。何かいたら、私が対処するつもりだった」
紅玉さまは真顔だった。
「着いたら、部屋の真ん中で仁王立ちしてたんだよね」
静蘭さまが笑った。その場所には今、菓子の包みと四人分の茶碗が並んでいる。
その茶碗を見て、鄭女官の説明を思い出した。
「あの、氣を養う修行? は、大丈夫なのでしょうか」
麗華さまが顔を上げた。
「一人で入るはずのところへ集まって、養える氣が少なくなったりは……」
「そこは、私たちも気になったの。だから、確かめました」
麗華さまは長椅子から足を下ろし、卓の前の座布団へ私を促した。静蘭さまも一緒に戻ってくる。
「宮中の検査が、数か月に一度あるでしょう。そこで増えた氣の量を確認したわ」
麗華さまは指を一本立てた。
「私なら、一人で過ごした私と、二人と過ごした私を比べます。静蘭や紅玉とは、もとの量が違いますから」
「私の分も、私の前の記録と比べた。何度か繰り返したが、増え方は変わらなかった」
紅玉さまが言った。
「ただ、四人で集まるのは今日が初めてです。ですが、大丈夫でしょう」
麗華さまは、そこをはっきりと言った。
「ずっと、おしゃべりをしていても?」
「それも試したよ。静かに座る日と、好きに過ごす日で、同じだけ増えた。寝ててもね」
静蘭さまは座布団を引き寄せた。
「だからといって、毎回すぐ寝なくてもよいだろう」
「こんなにゴロゴロできるのはここだけだよ、しなきゃ損だよ」
だらしない静蘭さまと、外のお美しい所作の静蘭さまを知っていると混乱してくる。
「杏鈴も、今日はお試しと思って一緒に過ごしましょう」
麗華さまが茶壺へ手を伸ばした。
私は茶碗を差し出して、「はい」と短く返事をした。
*
菓子が最後の一つになると、三人の意見が割れた。
「四つに割ればよいでしょう」
「小さすぎるよ。食べた気しないって」
「では、くじで決めるか」
「紅玉、それでは私が負けたらどうするの」
「食べられない」
結局、私は小刀を借りて四つに割った。静蘭さまは小さすぎると文句を言いながら、いちばん早く召し上がった。
静蘭さまが新しい札遊びを提案し、紅玉さまが真面目に遊びの問題点を指摘する。麗華さまは菓子の皿を片づけながら、私にもう一杯お茶を勧めてくださった。
三人は何か話すたびによく笑っていた。
*
鏡の縁が白くなり始めた。
「そろそろね」
麗華さまが長椅子から立ち上がる。足袋を履き、帯を締め直す。静蘭さまも慌てて袖を下ろし、紅玉さまは脚を揃えた。
三人が外の姫君へ戻っていく。
卓の端に置いた歩揺を挿そうとしていると、麗華さまが手を差し出された。
「貸して。留め具を確かめるわ」
後ろを向くと、細い髪を少しずつ取り、留め直してくださった。
「昨日は、言い方がきつかったわね」
「……少し」
「そう。気をつけるわ」
ひどくあっさり認められたので、私の方が驚いた。
「あの。小桃には、ここのことを話さない方がよいのですよね」
「ええ。知らなければ、何を聞かれても本当に知らないと答えられるもの。でも、あなたの代わりに疑われるようなことがあれば、黙っていなくてよいのよ」
髪飾りに触れる。
「困ったら、私たちに話して。一人で抱えないでね」
私は頷いた。
「帰りは自分の鏡から。つまみも元の位置へ戻すことを忘れないで」
「はい」
籠を持ち、自分の鏡へ歩いた。
外からは四人が集まっている姿も、誰が何を話しているのかも見えない。廊下を歩いて会いに行った記録も残らない。それでも、鏡のつまみを戻さずに出れば、誰かに気づかれるかもしれない。
斎室へ戻ると、鏡に映っているのは籠を持つ自分だけだった。
銀のつまみを回し、先端が家紋を指していることを確かめる。扉の掛け金を外すと、外には小桃が待っていた。
「お疲れではございませんか」
「いいえ。大丈夫です」
小桃のために残しておいた揚げ菓子を渡した。
「次も、同じものをご用意しましょうか」
「今度は、少し塩気のあるものも選びたいです」
「かしこまりました」
曲がり角で麗華さまと行き会った。付き添いの女官がいる。
「明日もお稽古は続きます。どうぞ、気を抜かずに」
声はいつもの厳しい姫君だった。
「はい。よろしくお願いいたします」
礼をした。
麗華さまの視線が歩揺へ一度だけ向いた。留め具を確かめるように。
部屋へ戻る廊下で、小桃が尋ねた。
「斎戒は、いかがでしたか」
四人で菓子を分けた。札で笑った。物語の続きが気になった。
どれも、そのままは話せない。
「少し、楽になりました」
それだけは本当だった。
次の斎戒まで、七日。
七日もあるのか。
まだ三人のことを知ったとは言えない。それでも、次は私から何か遊びを提案できるだろうか。そう考えたら、少しだけ楽しみになった。




