第1話 秘密の合言葉
皇后候補の姫君は、いつ、いかなるときも慎み深くあるべきだという。
それなのに、入宮して初めての休日、私は三人の姫君が揚げ菓子一つをめぐって真剣に言い争う姿を見た。
「四つに割ればよいでしょう」
「小さすぎるよ。食べた気しないって」
「では、くじで決めるか」
「紅玉、それでは私が負けたらどうするの」
「食べられない」
麗華さまは大真面目に、静蘭さまは寝転がったまま、紅玉さまは至極当然のように答えていた。
その朝まで、私はこの方々と笑い合う日が来るなど、考えもしなかった。
*
皇后になるためには、叱られるときにも美しく立たなければならない。
入宮六日目の朝、私はそのことに納得しかねていた。
「もう少し、深く。背を丸めないで」
四人の候補の教育を取り仕切る鄭女官が言った。言われたとおりに膝を折り、背筋を伸ばす。すると髪の中で、何かが滑った。
金の髪飾りが床へ落ちた。
花びらの形に細工された飾りから、真珠の房が揺れている。今朝、歩揺という名を教わったばかりだ。
身を屈めるより先に値段を考えた。真珠は割れていない。留め具だけなら、買い直すより直した方が安いのではないだろうか。
「杏鈴さま」
鄭女官の声に、はっとした。まだ床の髪飾りを見つめたままだった。
……値踏みをしている場合ではなかった。
「申し訳ございません」
実家なら、先に品物を確かめろと叱られる。
ここでは、品物より先に顔を上げなければならないらしい。
顔を上げると、三人の皇后候補がこちらを見ていた。
麗華さまは、吊り気味の切れ長の目を向けていらした。牡丹色の衣に皺一つなく、髪の先まで整っている。
静蘭さまは柔らかな笑みを浮かべていらした。私が手順を忘れると、さりげなく示してくださる。何度間違えてもその笑みは変わらず、私には、かえって何をお考えなのか分からなかった。
紅玉さまは三人でいちばん背が高く、髪を高く一つに結んでいる。朝から、座り直すところさえ見ていない。私はもう何度、足の位置を直しただろう。
「留め具は、ご自分でも確かめなさい」
麗華さまが言った。
「着せてもらったから知らない、では済まないわ」
後ろで世話役の小桃が進み出ようとした。失敗を詫びるためだと分かったので、私は先に口を開いた。
「朝、高い棚へ手を伸ばしたとき、袖を髪に引っかけました。私が気づかなかったのです」
それで本当に緩んだのかは分からない。けれど、小桃が代わりに責められるのは嫌だった。
麗華さまは小桃を一度見て、それから私に目を戻した。
「次からは、緩んだと気づいたときに直してもらいなさい」
白い指先がわずかに動く。
床の髪飾りがふわりと浮かび、麗華さまの掌へ収まった。
仙術だ。実家では、重い木箱を運ぶために符を一枚使うことがあった。符なしにものを浮かせる人は、ほとんど見たことがない。
「壊れてはいないわ」
「ありがとうございます」
歩揺が小さな卓へ置かれる。私はまた礼法の稽古に戻った。
何度も膝を折り、背を起こし、足の位置を直す。鄭女官がようやく頷いてくださったのは、私の膝が震え始めたころだった。
*
私の実家は、都の南で紙と筆墨を売っている。
朝は店を掃き、昼は客の注文を聞き、夜は帳面をつけた。祖母は端の折れた紙にも値をつけ、父は客に勧める紙の違いを、いつまでも楽しそうに話す。
いずれ私も、その中で働くはずだった。
ところが、祖母の祖母の、そのまた母のあたりが、やんごとない家から嫁いできたらしかった。
家系図が見つかった。
役人が来た。
父が青くなった。
三月後、私は後宮にいた。
皇后候補は、建国以来の四家の血筋を引く娘から一人ずつ選ばれる。三人は私より半年早く入り、家格も教育も申し分なかった。残る一つの席は、もともと選ばれるはずだった姫君が候補から外れたため、長く空席だったという。
その家の遠い血縁に当たる娘を探した結果、なぜか実家の家系図に行き着いた。私が半年遅れて入宮したのは、そういう事情だった。
皇后になるのは、四人の候補のうち一人だけ。皇帝が最終的に選ぶと聞いたが、女官たちは稽古のたびに誰が勝ったかを気にしている。選ばれなかった者は家へ帰れるとも聞く。ただし、選ばれる前から辞退したいなどと口にすれば、家の面目を潰すことになる。
皇后になりたいかと問われるなら、答えは決まっている。
なりたくない。
誰かが選ばれたら心からお祝いして、家へ帰りたい。いつかは自分で選んだ紙と筆を並べ、客が試し書きをしたあとにお茶を飲める小さな店を持ちたい。
けれど、そんな望みは宮中で口にできなかった。
その夜、歩揺を外しても、髪の根元が痛かった。
*
翌日は、七日に一度の休日だった。講義も稽古も、一日ない。
午前は各自で休み、昼の膳を済ませてから、斎戒のために控えの間へ集まった。夕食前まで、一人で心を静めるのだという。
「本日は、斎心鏡の奥でお過ごしいただきます」
控えの間で、鄭女官から薄い手引きを渡された。表紙には五弁の花が描かれている。
「奥、というのは」
「鏡の中です」
鄭女官が開いた頁には、鏡の向こうへ歩いていく人の絵があった。
「お体ごとお入りになります。通れるのは、その鏡に結びつけられた候補の方だけ。杏鈴さまは南の鏡にお入りいただきます」
物を浮かせる術なら知っている。けれど、人が丸ごと鏡に入るというのは、話が違った。
「中で過ごすことで、氣を養えます。繰り返し入れば、ご自身に蓄えられる氣の量が少しずつ増してゆくのです」
つい数日前に知ったことだが、私も多少は氣を持っている。名前も知らないご先祖さまの血筋のおかげだ。
「術も、使えるようになるのでしょうか」
「扱い方は、お稽古で身につけていただきます。氣が増えるだけでは、思い通りに操れません」
髪飾りを浮かせた麗華さまの指先を思い出した。入ればすぐ、あんなふうになれるということではないらしい。
「力が満ちるのは七日に一度、昼の膳の後から夕餉前までです。力が満ちていない時間は入れません。養氣の成果は、数か月に一度の検査で確かめます」
続く絵には、東西南北の斎室が描かれていた。
「それぞれお一人で、心を静めていただきます。扉には内側から掛け金を。鏡へ一礼し、こちらの祝詞を唱えてください」
「戻れなくなることは」
「入った鏡をくぐれば戻れます。刻限が近づくと縁が白くなりますから、それを合図にお支度を。刻限になれば、必ず外へ戻されます」
帰り方の頁の端を折った。必ず戻れると言われても、入る前にもう一度確かめたかった。
「出入りはできますが、氣を養っていただくため、よほどのことがなければ中に居続けてください。茶菓や書物も持ち込めますよ」
休んでよいと言われても。そんな得体の知れない場所にいて気が休まるのだろうか。
「初めてですから、不安になるのはわかりますが」
鄭女官が言うと、麗華さまが席を立った。
「私が祝詞を唱えるときの手本をお見せしてもよろしいでしょうか」
「では、手の重ね方からお願いします。杏鈴さまは、まず手引きの基本の句で」
麗華さまは手引きを卓に置き、私の隣で右手に左手を添えた。
私も真似をする。開かれた頁が、重ねた手の向こうに見えた。
「指先に力を入れすぎよ。それでは、最後まで持たないわ」
緩めると、今度は手の間が開いた。
麗華さまの指が、そこをそっと押し戻す。
祝詞は短かった。ただ、礼をして、息を整えて、手を動かさずに唱えるとなると、知っているはずの字まで読みにくくなる。
ようやく結びまで唱えると、麗華さまが手引きの次の頁を開いた。
「結びは、こちらの古い形でもよいのよ」
「息を分かち、心を和す」
示された句を読み上げてから、鄭女官を見た。
「ええ。どちらも正しい祝詞です。家に伝わる句をお持ちの方は、そちらをお使いになりますが」
家伝と言われても、私が教わってきたのは紙の仕入れ先と、代金を待ってはいけない客の名前くらいだった。
わかりましたと小さく返事をして、私が手引きを閉じて抱えると、鄭女官は侍女たちに供物の籠を持つよう告げた。
「では、斎室へ。こちらへどうぞ」
静蘭さまと紅玉さまが席を立つ。私も続こうとして、麗華さまに呼び止められた。
「その前に、襟を」
手を動かすうちにずれたらしい。麗華さまは私の正面に立ち、重なった襟を整えた。
鄭女官と侍女たちが出ていき、最後に紅玉さまが扉を閉めた。廊下の足音が遠ざかる。
麗華さまは戸口へ一度目を向け、それから私の耳元で囁いた。
「鏡の右側に、銀飾りのつまみがあります。この飾りを回し、下にある花模様へ合わせてから、さっきの古い句を唱えて」
顔を上げた。
「来たければ、いらっしゃい。三人で待っているから」
三人で?
斎室は別々で、鏡の中でも一人で過ごすと、いま教わったばかりだ。
「あの……皆さまも、南の斎室へ?」
私も声をひそめた。
「いいえ。それぞれの鏡から入るの。会うのは、その先よ」
別々の鏡に入って、同じ場所へ出る。
手引きへ目を落とした。そんな説明は、なかった。
「このことは、女官たちには絶対に言わないように」
低い声が、昨日の稽古と同じ厳しさを帯びた。背筋を伸ばした。
「はい。誰にも申しません」
返事だけは、礼法の稽古より早く出た。
来たければ、と言われたはずなのに、もう断れない気がした。
「これでよろしいわ」
麗華さまは襟の重なりを一度撫で、手を離した。何事もなかったように扉を開ける。
手引きを抱え、そのあとを追った。
三人は、私に何のお話があるのだろう。
昨日の礼のことか。それとも、一昨日どちらの味方とも言えなかったことか。
閉じた手引きの下で、掌が湿っていた。
*
廊下の分かれ道で四人は別れ、私は小桃と南へ進んだ。
南の斎室の外では、女官が私の名と入室の刻を帳面に記した。
小桃は係の女官へ籠の中を見せた。茶器と、胡麻をまぶした揚げ菓子が二つ。女官が頷くと、小桃は包みを直し、私へ持ち手を差し出した。
「終わりの刻には、お迎えにまいります」
籠を受け取った。
斎室の敷居を越えても、小桃の足音はついてこなかった。
部屋には、姿見ほどの鏡が立っていた。
縁の右側に矢の形をした飾りがあり、その下に花の模様があった。
籠を置き、扉を閉じた。教わった通りに掛け金を下ろす。扉の上の明かり窓には、小さな灯がともっていた。
これも仙術なのだろうか。
手引きを広げる紙の音が、思いのほか大きく響いた。
端を折った頁を、もう一度読む。入ってきた鏡をくぐれば戻れる。出口を探して歩き回ることにはならないらしい。
遠くで、斎戒の始まりを告げる鐘が鳴った。
銀の矢飾りへ手を伸ばしかけて止めた。
このまま教わった通りにすれば、一人で休める。
銀の矢飾りを、花模様へ向けて回し、古い句を使えば、三人がいるらしい。
昨日の麗華さまの声が、耳の奥で蘇った。
留め具は、ご自分でも確かめなさい。
怖かった。
けれど、小桃を罰するようには言わなかった。
入宮してから、相手を怒らせないことばかり考えていた。
ここで過ごす間、ずっとこの調子なのだろうか。茶の味も分からないまま。
三人が何を話すつもりなのか、自分の耳で聞いてみたい。
銀の飾りを指でつまむ。
少し力を込めると、かすかな音を立てて回った。飾りの向き以外に何かが変化したようには見えない。鏡には、まだ自分の顔が映っていた。
手引きを籠の上へ広げ、一礼する。手を重ねて祝詞を読み、結びには、さっき練習した古い句を使った。
「息を分かち、心を和す」
鏡に映っていた自分の顔が、水面を撫でたように揺れた。
けれど、鏡の奥は見えない。銀色の面が波打つばかりだった。
手引きを閉じて籠へ収めた。持ち手を握り、鏡へ片足を差し入れる。
ぶつからなかった。
向こう側にも、靴底を支える硬い床があった。
もう一歩。
茶の香りがした。
「来た!」
静蘭さまの声だった。
息を止めた。
低い卓。大きな敷物。窓に見える、白い空。
卓の横で、静蘭さまが座布団を二つ重ね、枕にしていた。
横向きに寝転び、片袖を肘までまくっている。丸い頬は座布団に押されて少しつぶれ、空いた手が卓の皿を探っていた。干した杏をつまむと、起き上がりもせず口へ運ぶ。
……あの静蘭さまが、ごろ寝を。
窓際では、紅玉さまが敷物の上にあぐらをかき、膝の上に薄い本を広げていらした。高く一つに結んだ髪を背へ流し、熱心に頁を追っている。
私に気づくと、すぐに栞を挟んで本を閉じ、こちらを向かれた。
……あの紅玉さまが、あぐらを。
そして、麗華さまは。
長椅子に深く腰掛け、片膝を抱えて足袋を引っ張っていらした。帯は緩み、その端が椅子から垂れている。足元には、もう片方の足袋が丸まって落ちていた。
すぽん、と足袋が抜けた。
麗華さまは、それを。
ぽいっ。
長椅子の下へ放り、素足を座面に投げ出して、足の指を開かれた。
……あの麗華さまが、足袋を、ぽいっと。
「来てくれたのね」
私は思わず一歩下がった。
「申し訳ございません。間違えました」
「合っている。そこが杏鈴の入口だ」
紅玉さまが、あぐらのまま答えられた。
振り返った。
背後の鏡に、自分の姿は映っていなかった。見えるのは、いま出てきた無人の斎室だ。閉じた扉の上で、灯が青白く光っている。
四角い部屋の、ほかの三方の壁にも鏡があった。それぞれ違う色の柱と扉が見える。遠く離れた斎室へ向けて、一つずつ窓が開いているようだった。
「……本当に、同じ場所へ出るのですね」
静蘭さまが杏を飲み込み、口元を手で隠した。
「うん。外では、それぞれの斎室で心を静めてることになってる。こっちに座りなよ」
姿だけではない。静蘭さまの話し方まで、まるで違う。「ですわ」も「かしら」も、どこかへ置いてきてしまったらしい。
足が動かなかった。
麗華さまは自分の足元を見て、長椅子から垂れていた帯の端を膝へ引き上げた。
「まず、説明をしましょうか」
「麗華、足袋を脱ぐのは説明をした後でよかったんじゃない?」
「静蘭、あなたこそ話の間くらいは起きなさいよ」
静蘭さまがゆっくり起き上がった。
鏡の中へ来ると、人はこうなってしまうのだろうか。
できれば、その決まりも手引きに書いておいてほしかった。




