第19話 灯りの行く先
「始まります。お支度はよろしいですね」
四人で返事をした。
祭司の祝詞が、池へ向かって響いた。
宮中の安寧を願う言葉が終わり、供物の前で一礼する。そのあと、岸の席へ移った。候補たちの席からも、舞台は正面に見える。
最初に呼ばれた麗華さまが、席を立たれた。
短い渡り板を進み、舞台の中央へ立つ。楽の音を待つ間も、袖口から出た指先は動かなかった。
弦が鳴った。
麗華さまの袖が、池の上へ広がった。
格子窓の明かりで見た一節が、今は夕日の中にあった。腕が弧を描くたび、淡い布の縁が金色に透ける。足を運ぶ音は楽に隠れ、舞台の上を滑っていかれるように見えた。
体が後ろへ向くより先に、顔がこちらへ戻る。
次の拍子で、袖が返った。
水面にも、同じ淡い弧が描かれた。池の風に布の先が揺れても、麗華さまの肩は上がらない。舞う方の背筋が静かなままなので、袖の動きがいっそう大きく見える。
袖を引き寄せ、前へ踏み出す。少し屈めた膝を伸ばすところで、布が左右へ開いた。ゆっくりだった曲が速くなり、袖の先が一度、肩より高いところを通った。
指先から布の端まで、途切れずにつながっている。
最後の音が近づくと、麗華さまは舞台の中央へ戻られた。
足が止まる。
袖だけが、まだ動いた。
池に映った布も、遅れて収まる。楽が止んだあとまで、客席は静かだった。
麗華さまが礼をすると、拍手が広がった。
席へ戻られたところで、隣から小さく声をかけた。
「綺麗でした」
「ありがとうございます」
麗華さまは小声で短く答え、舞台へ顔を向けられた。頬にも声にも、喜びは浮かべない。
けれど、揃えた袖の下で、指先が一度、こちらへ動いた。
次の休日には、もっと感動を述べたかった。
紅玉さまが呼ばれた。
池の横、客席のない岸に的が置かれていた。弓場の係がその先に人のいないことを確かめ、控えていた者も横へ下がる。
紅玉さまは、舞台の端へ立たれた。
袖は手首で留められている。高く結んだ髪が背に落ち、弓を持つ腕が夕空へ伸びた。
矢をつがえる。
さっきまで楽の音が満ちていた庭で、弦の張る小さな音が聞こえた。
紅玉さまの目は、対岸の的から動かなかった。
弦が離れた。
矢は、池の上を横切った。
的へ当たる音が、水を隔てて届いた。中央に、一本の矢が立っている。
客席がざわめく間に、紅玉さまは次をつがえた。
二本目が、一本目のすぐ脇へ収まった。
三本目を放つときには、こちらも肩を動かさずに見ていた。矢が届くまで、息を止める。
同じ中央へ、三本が集まった。
紅玉さまは弓を下ろし、的を確かめてから客席へ礼をなさった。拍手の中を戻ってこられ、隣へ腰を下ろす。
「三本とも、真ん中でしたね」
「ああ、うまく行った」
短い返事だった。
膝へ戻した手の指が、弦を離すときと同じように、一度開いた。
次に舞台へ運ばれたのは、浅い大きな器だった。
その器に、静蘭さまの側仕えの女官が水を注ぐ。
静蘭さまが中央へ進まれるころには、橋の向こうに日が沈みかけていた。岸の柱の灯に火が入り、水面へ細い光が伸びる。
静蘭さまは器へ手をかざした。
初めは、水面が少し白くなっただけに見えた。
その中央から、細い氷が伸びた。
一筋が二つへ分かれ、さらに先が開く。葉の形をした薄い氷が、枝へ添うように重なった。
客席から、声が上がった。
静蘭さまの指先の動きに沿って、花が開いていく。
水が少しずつ持ち上がり、細い茎の先で冷え固まる。透き通った花びらが一枚できるたび、その隣に、次の一枚が添えられた。
ただ凍らせれば、器と同じ形になる。
静蘭さまは、流す水の細さも、冷やすところも、同時に変えているのだった。
掌を離したあと、氷の花は台の上で動かなかった。向こうの灯を映し、花びらの縁だけが明るくなる。
「お席からも、ご覧になれますでしょうか」
静蘭さまの声は、いつもと同じ、柔らかな声だった。
台の向きを変えると、重なった花びらの間を、灯りが順に通った。
器の中には、まだ水が残っている。静蘭さまはその水を細く引き上げ、花の隣へ小さな蕾を添えた。
私なら、これだけでも、ずっと見ていたかった。
拍手が始まる。静蘭さまが礼をし、台は客席に近いところへ移された。
戻ってこられた静蘭さまの袖口が、少し濡れていた。
「とても美しい氷の花でした」
静蘭さまが、こちらには向かず微笑んだ。
係の女官が私を見た。
「お支度は、よろしいかしら」
「はい」
顔を上げると、舞台の脇に小桃が立っていた。両手に、符を収めた包みを持っている。
今度は、私の番だった。
*
舞台の中央へ進み、一礼した。
「今日は、符を使った灯りをお見せいたします」
岸に置いた紙灯籠へ、指を添えた。
白い紙に橙色が広がり、灯籠が一つ、ふわりと浮かんだ。
客席から小さな声が上がった。好意的な声ではなさそうだった。
灯籠はゆっくり舞台の高さを越えた。広い夜空に、ぽつんと一つ。まばらな拍手が聞こえる。
岸で待つ係へ、合図を送った。
岸に沿って、一斉に灯りがともった。
幾十もの紙灯籠が、地面を離れた。舞台の両脇から、橋のたもとから、向こう岸から。橙色の灯りが、いっぺんに空へ押し寄せる。
拍手が途切れた。
先の灯籠を追って、さらに奥の列が浮き上がった。見上げる方々の顔が、紙灯籠に照らされてみるみる明るくなっていく。
客席のあちこちで、人が立ち上がった。
最後の列が岸を離れる。今朝、書き上げた八枚も、その中にあった。
三百の灯りが、池の上空に浮かんでいた。
高いところの灯籠が左右へ分かれ、低いところの灯籠が外へ広がった。重なっていた灯りが離れ、隣同士、等しい間隔で並んでいく。
うまくいくか、一番心配していたところだ。
灯りの列が、大きく弧を描いた。その両端が隣の弧と繋がり、丸い花びらをかたどる。
ざわめきの中で誰かが言った。
「あれは、花紋様か……」
夜空に、五弁の花が描かれていた。
紙灯籠の一つ一つが光の点となり、五枚の花びらの輪郭と、中央の小さな輪を形作っている。
尊き方々がおわす、正面の御簾に織られた花と、同じ形だった。それが、廊の屋根よりも高く、池の幅いっぱいに広がっていた。
三百の灯りが、それぞれの符に定めた位置へ収まった。
何度も配置図と照らし合わせ、書き揃えた花だった。
屋根に隠れて見えないのか、廊から庭へ出てくる方がいた。空を指さしていた方も、手を下ろし、顔を上げたまま動かなくなった。
花びらの端が少し揺れた。
風に押された灯籠が、ゆっくりと定めた位置へ戻る。隣の灯りとの間隔が揃い、花の輪郭が戻った。
麗華さまが席を立たれていた。
静蘭さまは目を丸くし、紅玉さまは、卓へ戻しかけた茶碗を持ったままだった。
私は口元が緩むのをこらえた。
拍手が起こった。
橋の向こうからも、廊の奥からも、音が重なって広がった。空を見上げながら、何度も手を打っている方がいる。
池にも、もう一輪の花が揺れていた。
*
やがて符に込めた氣が尽き始めると、灯籠はゆっくりと高度を下げた。空の花がほどけていく。
岸へ戻った灯籠を、待っていた係が一つずつ受け取っていく。
最後の一つも岸へ戻った。
空を見上げる。あれほど明るかったところに、星が見えていた。
客席へ向き直り、礼をした。
顔を伏せても、拍手は続いていた。
*
客席へ戻ると、三人とも、素晴らしかった、と言ってくださった。
言葉少なく、表情も澄ましているが、鏡の中でその続きをおっしゃってくれるとわかっていた。
私もそうだ。
麗華さまの舞は、最後まで淀みがなかった。でもあの袖を下ろす間を、何度も練習なさった努力の姿を讃えたい。
紅玉さまの三本の矢は、すべて的の中央に集まっていた。紅玉さまの技量の凄まじさをみんなで伝えたい。
静蘭さまの氷の花には、最後に小さな蕾がついた。あれは最初から考えていたのだろうか。尋ねてみたい。
外では知られないことが、私たちにはいくつもある。
茶を一口飲んだ。
私の披露は、大成功だったと言っていいだろう。
帰ったら、家の女官たちと喜びを分かち合おう。
次の斎戒まで、あと数日。
そこでも三人と共に喜びあえるのを想像して、また嬉しくなった。




