第18話 奉納の宴
次の休日、私はいつもより早く鏡へ入った。
「杏鈴。今日は何を持ってきたの?」
「胡麻団子です。……その前に、お礼を言わせてください」
紅玉さまが冊子を卓へ置かれた。
「先日は、助けてくださってありがとうございました」
深く頭を下げた。
「怪我がなくてよかった」
「はい。でも、あのとき何もできなくて……」
男の刃が胸の高さへ来た瞬間を思い出す。足が動かず、声も出なかった。
座っても、指の震えが少し残っている気がした。
「怖かったですね」
麗華さまが言った。
その一言を聞いて、ようやく答えられた。
「はい。お部屋へ戻ってからも、目の前に刃があるような気がして……小桃がお茶を出してくれるまで、帯を緩めるのも忘れていました」
紅玉さまは私の前へ菓子の皿を置いてくださった。
あの日、刃を持った男の腕を押さえた手が、今は胡麻団子を一つ取っている。その動きを目で追っているうち、少しだけ肩の力が抜けた。
「紅玉さまが来てくださったところ、袖しか見えませんでした」
「刃の方を見ていたからだろう」
「次に目を向けたときには、あの方はもう膝をついていらして」
「手を伸ばせるところにいた。それでよかった」
紅玉さまはそれ以上ご自分の働きを語らず、皿を私の方へ寄せられた。
「杏鈴も、食べてくれ」
静蘭さまが大げさに息を吐く。
「もう。杏鈴が無事で、ほんとよかったよ」
「静蘭さまも、ご心配をおかけしました」
「心配くらい、かけていいって」
「それに、紅玉さま」
「何だ」
「刃物を持った男を止められたとき、とてもかっこよかったです」
紅玉さまを見据えて言った。
「白馬の王子様みたいでした」
紅玉さまは茶碗を持ったまま目をそらした。
「……そうか」
「照れてる」
静蘭さまがからかう。
「照れていない」
否定する紅玉さまの耳が、少しだけ赤い。
麗華さまは何も言わず、笑っていらした。
「麗華さまも、ありがとうございました」
「私は、何もできなかったわ」
「私が答えるまで、待っていてくださいました」
麗華さまが、茶碗から顔を上げた。
「先日は、きつい言い方をしました」
「私も、あなたの話を聞こうとしなかったわ。危ない目に遭わせたくなくて、そればかり考えていたの」
「はい。一人で伺わなくて、よかったです」
麗華さまは茶碗へ目を落とし、小さく頷かれた。
*
その日は、紅玉さまが書き直した物語を皆で読んだ。
青年が花売りの娘を待つ場面で、同じ籠を二度持ち上げ、買うふりをしている。
「待っているのだと分かるか」
「はい。店の方は、買うのかと思ってしまいそうですが」
「なら、値を聞いて、答えを聞いていないところも加えよう」
「お店の人、困るじゃん」
静蘭さまが言う。
「恋のお話で店のことを心配するのは、杏鈴だけじゃなかったのね」
「困らせるのは良くないな」
紅玉さまは至極真面目だった。
四人で笑っているうちに、いつもの休日へ戻っていた。
紙のことも、あの刃も、消えたわけではない。それでも、今日はここにいればよかった。
*
宴までは、もう一週間もなかった。
紙の不正が明らかになっても、失われた符用紙がすぐに元に戻るわけではない。先生は追加注文を進めてくださったが、必要な符用紙は一度には届かない。最初に届いた束で書き始め、次の束が届くまで普通紙で練習する日もあった。
「三百枚に届かなければ、灯籠の数を減らしましょう」
先生は何度もそうおっしゃった。私はそのたび頷いた。ここまで頑張ったのだから、三百の灯りを見たい気持ちはあった。
用度から次の納品の知らせがあったのは、その数日後だった。先生が一束ずつ仕立てを確かめ、渡してくださる。
朝は礼を繰り返し、昼には書物を開く。舞の稽古では相変わらず袖が遅れ、弓では矢が右へ寄る。符を書くためだけに、ほかの稽古を休むわけにはいかなかった。
夕方、部屋へ戻ると、小桃が卓を空けてくれた。
先生から教わった図をまた前に出し、普通紙で確かめ、それから符用紙へ筆を下ろす。細い線が途切れず、氣も留まっているかを次の日に確かめていただく。
紙灯籠を用意するところで、私の家の女官たちも頑張ってくれている。
みんなの努力を、宴の場で認めてもらいたかった。
窓の外から舞の楽が聞こえる日には、麗華さまが袖を返していらっしゃるのだと思った。弓場の方からは、紅玉さまの矢が的に当たる音がした。静蘭さまは器の大きさと水の量を先生と確かめているらしい。
私たちは、別々の披露のために稽古している。
宴の前夜、紙灯籠の符は二百九十二枚になった。
「あと八枚ですね」
小桃が空いた紙箱を閉じた。
「はい。明日の朝に届く分で、仕上げられます」
今ある良品は、これで使い切った。最後の紙は朝のうちに稽古場へ運ばれると聞いている。八枚なら、昼の支度が始まるまでに書ける。乾かして氣を込め、先生に確かめていただいても、夕刻には間に合うはずだった。
筆を洗ってもらい、明日の見本をいちばん上へ置いた。
*
翌朝、稽古場の卓にあったのは、紙の束ではなく、用度からの書付だった。
「最後の荷が川の氾濫の影響で遅れています。夕刻にも、間に合わないそうです」
先生は書付を畳まれた。
「灯籠を八つ減らしましょう。係には私から伝えます」
二百九十二の灯りでも、空には十分広がる。先生がおっしゃることは分かった。
けれど、私は小桃の持つ筆箱へ手を伸ばした。
「紙なら、まだございます」
練習用の包みを開くと、先生が手を止められた。
「これは、前に取り替えた紙ではありませんか」
「はい」
表面の仕立てが揃わず、細い線を描くには向かない紙。それを一枚出した。
「一枚、見ていただけますか」
小桃が硯を寄せてくれた。
墨を含ませ、紙の端で穂先を試す。少し落として、もう一度。
集中。
図の始まりへ筆を置いた。
滑るところでは速さを変え、引っかかる手応えには穂先を立て直す。墨を足して繕わず、曲がりの先へ運ぶ。
白く抜けることなく、最後の線がつながった。
「……杏鈴さま?」
声に顔を上げると、静蘭さまが戸口にいらした。氷の花に使う器を受け取りに来られたらしい。係の女官を先へ行かせ、卓のそばへ寄られる。
「前の紙に、お書きになれたの?」
「はい」
先生が紙を明かりへ傾け、細い線を順に確かめられた。
「仕立てのむらは同じですね。それなのに、図は揃っている」
私は次の紙を広げた。
「あのあとも、試しておりましたので」
「代わりの紙は、いただけたのに?」
「それと、こちらでも書けるようになりたいのとは、別です」
言ってから少し恥ずかしくなり、穂先へ目を戻した。父の店で扱う紙にも、素直なものと、そうでないものがあった。書きにくいからと筆を置いたままでは、どうにも落ち着かなかったのだ。
*
窓から差す光が卓の端へ移るころ、八枚目を書き終えた。
墨が乾いたものから、先生にお渡しする。先生は一枚ずつ線を見直し、氣が留まっているかを確かめてくださった。
紙の表は扱いにくくても、氣が漏れ出すことはない。
小桃が最後の一枚を渡した。
先生が線を見て、氣を確かめ、それから頷かれた。
「これも、使えます」
小桃が空いていた包みへ符を収めた。
「三百枚でございます」
私は筆を硯の脇へ置いた。
指を開くと、握っていたところだけが少し熱かった。
小桃と八枚の包みを持って岸へ行く。覚え書きの番号を確かめ、まだ符の入っていなかった紙灯籠へ、一枚ずつ留めていった。
紙を探してくださった人も、灯籠にしてくれた人も、小桃も、先生も。皆で揃えた紙灯籠が、これで全部上がる。
空を見た。
まだ、ずいぶん明るい。
夕刻までに、今度は自分の支度をしなくてはならなかった。
*
数刻後、池の岸には、まだ日が残っていた。
池へ張り出した木の舞台の向こうに、低い橋が見える。舞台と岸を結ぶ短い渡り板には、敷物が敷かれていた。
客席は岸の屋根のある廊に設けられている。宮中の女性たちが席に着き、その後ろには上級女官や、私たちの稽古を見てくださる先生方の姿もあった。
そして、最も尊き血筋の方々も。
廊の柱には灯が掛けられ、まだ火のない灯芯が、明るい空を背に白く見えた。宦官たちが庭の端を行き来し、器や台を運んでいる。
舞台の脇には、祭司が供物を並べていた。
四人は、岸に面した控えの間で順番を待った。
小桃が襟元を確かめ、帯の端を整えてくれる。こちらも覚え書きを開きかけたが、膝へ戻した。
隣では、麗華さまが袖の折り目を整えていた。牡丹色の衣の上に、淡い色の長い袖が重なる。手首を少し動かすと、その先が膝から静かに落ちた。
紅玉さまは弓の弦を確かめ、静蘭さまは膝の上に両手を揃えている。
鄭女官が戸口へ来た。
「始まります。お支度はよろしいですね」




