第17話 反論
「違います。その日は斎戒の日でした。私は昼の膳のあと、南の斎室に入り、夕刻まで出ておりません」
調査役が荷口の控えを開く。引取人が申告した日には、確かに宮外から来た記録があった。
続けて鄭女官が斎室の記録を出した。
「杏鈴さまは昼の膳のあとに入室し、定めの刻に退出されております。途中の出入りはございません」
「斎戒は自由にできる時間と聞いています。少し、抜け出すこともできるでしょう」
引取人が言った。
斎室の係が前へ出た。
「外の扉には、内側から掛け金を下ろしていただきます。私はその扉の前で控えておりました。入室後に在室灯が青くなり、終わりの刻まで変わっておりません。扉を開けてお出になったこともございません」
「しかし、呼べば、戻ってこられるのでしょう」
初めて許女官が焦ったような様子を見せて口を挟んだ。
「鏡の中から斎室へ戻ることと、斎室から廊下へ出ることは別です」
鄭女官が答えた。
「荷口へ向かうには、係の前で扉を開けなければなりません」
斎戒のことは、一部のものにしか詳細が明かされていないらしい。許女官は知らなかったのだ、斎戒がどんなものなのか。
「私は南の斎室におりました。あの方にお会いしていません」
引取人が許女官の方を見た。
「日を間違えたのかもしれません」
「では、別の日と根拠をお答えください」
鄭女官は記録係の筆が止まるのを待った。
引取人は答えなかった。
静蘭さまも、紅玉さまも、麗華さまも、口を挟まずにいてくださった。
私は息を吐いた。自分の言葉を、自分で言えた。
麗華さまと言い争った日のことを思い出した。あの方の恐れを軽んじたかったわけではない。今日も怖い。それでも、自分で答える機会をいただけたことがありがたかった。
*
用度の責任者が、調査役の集めた受取書を一枚ずつ卓に並べた。これから問われるのは、紙の品質だけではない。外へ売った紙の代金が、どこへ消えたかだった。
代金の全額を許女官へ渡したという署名がある。その中から安価な紙を買い入れ、仲介した引取人へ手間賃を渡した支払いの控えも揃っていた。
公金として戻された記録はない。
許女官はなおも、私へ渡すつもりだったと言った。だが、受渡しの指示や控えは出せなかった。
「杏鈴さまのお話を、私が形にしたのでございます」
「私の、どの言葉をそう受け取られたのですか」
「紙のお値段をよくご存じでしょうから」
「値段を知っていることと、売ってよいと頼むことは違います」
言い切って、私は許女官の顔を見た。
「前の紙で書けなかったことも、別の紙なら書けたことも、本当です。でも、私の知らないところで紙を売り、安い品へ替えるようお願いしたことはありません」
許女官の微笑みは、もう消えていた。
責任者が静かに告げた。
「この売却と金の扱い、虚偽の報告については、用度で責任を確かめます。候補のご意向で何か処理を変えることはありません」
「今回の分だけでなく、これまでの納入と払い出しの帳簿も、改めて調べます」
引取人の顔から、血の気が引いた。目が、扉の方へ動いた。
許女官はその場で、引取人の方を手で示した。
「不足の金は、この者が――」
「俺だけのせいにする気か!」
男の声が変わった。
不穏な様子に気づいた宦官が男に近づくと、男は手を振り払い、廊下へ走ろうとした。
衣の陰から、白い刃がのぞいた。
入口で預けていたものとは別の、小さな刃物だった。
「どけ!」
北の荷口へ抜ける廊下は、私のすぐ後ろにあった。
逃げる男の手が、私の肩へ伸びる。避けようと思ったのに、足が動かなかった。
次の瞬間、紅玉さまの袖が目の前を横切った。
刃を持つ腕が外へ逸れ、男の膝が石敷きに落ちる。紅玉さまは手首を押さえ、落ちた刃を足元から遠ざけられた。
「ぐ、離せ」
男がうめいた。
駆け寄った宦官たちが男を取り押さえる。紅玉さまはその手を引き渡してから、私へ振り向かれた。
「怪我はないか」
「……はい」
返事をした途端、膝が震えた。
静蘭さまが私の腕を取り、麗華さまは背に手を添えてくださった。
「よかった。座ろう、杏鈴」
静蘭さまの声は、外に合わせて丁寧に言い直す余裕もないほど小さかった。
私は頷いた。手のひらが冷たい。
先の休日、鏡の中では、自分で話したいと言った。けれど、刃を向けられることまでは考えていなかった。
あのとき逃げることしか考えられなかった自分の膝を、まだ押さえていた。
紅玉さまは宦官に何か説明している。静蘭さまは私の手を離さず、麗華さまの手は背に残ったままだった。
*
小桃に支えられて立つと、鄭女官がこちらへいらした。
「杏鈴さま。お歩きになれますか」
「はい」
一歩踏み出すと、膝に力が入らなかった。小桃の腕を掴み、どうにか踏みとどまる。
鄭女官が、そばにいた女官へ椅子を持ってくるよう命じた。
「申し訳ございません。少し休めば――」
「では、お休みください」
椅子へ腰を下ろすと、鄭女官は小桃へ向き直った。
「お部屋まで、もう一人付き添わせます。戻られたら温かいものを。今日は筆も書物も、お休みいただくように」
「かしこまりました」
鄭女官は、私の顔をしばらく見ていた。
今の私はひどく情けない姿だ。礼儀について叱られると思った。
膝の上で手を揃えた。指先がまだ震えていて、片方の手で押さえる。
鄭女官の目が、そこへ落ちた。
「……よく、お答えになりました」
顔を上げた。
「聞かれたことにはっきりと答え、嘘には毅然として反論されましたね」
「はい」
女官が茶を運んできた。受け取ろうとすると、鄭女官が先に茶碗へ手を添えた。
「卓へ。今は、こぼされます」
言われて、伸ばしかけた手を引っ込めた。
湯気が、目の前をゆっくり上がる。
「ご立派でした」
小桃が付き添いの女官と荷をまとめる間、鄭女官は席を外さなかった。茶を飲み終え、今度は自分の足で立てるまで、そばにいてくださった。
*
翌日、先生から新しい符用紙を少し分けていただいた。
「追加注文の先の分だけ、ようやく届きました。調査中の在庫とは別の品です。必要な枚数がすべて揃ったわけではありません」
先生は納入時の見本と比べ、使えることを確かめてから渡してくださった。
「残りも手配しています。ただ、いつ届くかはまだ言い切れません。紙灯籠の数を減らすことも、考えておいてください」
私は受け取った束の厚さを確かめた。諦めるには、まだ早い。けれど、紙が届くかどうかは、私が努力すれば決まることではなかった。
私はまず普通紙で図を練習し、それから符用紙へ筆を下ろした。
細い線が曲がって、最後までつながる。
「良い出来です」
先生の声を聞いても、すぐには筆を置かなかった。もう一度、線の間隔を確かめてから、そっと離す。
一枚増えた。
宴まで、もう二週間もない。
*
二日後、鄭女官から処分の見通しを聞いた。
許女官は、不正な売却と金の扱い、虚偽の報告について取り調べを受けている。引取人も、金を私へ渡したという話が嘘だったと認めたという。
古い帳簿にも同じ不正の跡が見つかった。二人は何年も前から横領を繰り返し、代金を分け合っていたそうだ。積み重なった額は、公の財を盗んだ罪だけで極刑を免れないほどだったという。
それで、あの男は刃物を抜いてまで逃げようとしたのかとわかった。
周侍郎さまからは、礼の文が届いた。
後宮に納めた紙の品質に問題がなかったと分かり、周家の取引先へ説明できるようになったのだそうだ。以前の厳しい文に比べると、筆の運びまで軽いように思えた。
私は短く返書を書いた。先に届いた紙への礼と、まだ足りない分を待っていること。それから、周家の信用が守られてよかったと。
三人の好きなものや苦手なものについては、何も書かなかった。
墨が乾くのを待つあいだ、次の符用紙を引き寄せた。
いま確かめたいのは、同じ図を、あと何枚書けるかだった。




