第14話 私の名前で言わないで
符用紙の仕立てが揃っていないのは、私の思い違いだったことにされていた。
「私の、どの言葉をそう受け取られたのですか」
稽古のあと、許女官に尋ねた。
先生の控えの間だった。小桃は後ろで筆箱を抱え、年配の女官が戸口に控えている。卓の上には、書き損じた符用紙の包みが置かれていた。
「お取り替えした紙なら、よくお書きになれたと聞いております。お困り事は解けたのでは?」
許女官は柔らかく微笑んだ。
「はい。ですが、紙が悪かったことも確かめていただきました。私が思い違いだったと認めたことには、なりません」
「それは失礼を。早合点したのでしょう」
すぐに頭を下げられたので、私は返す言葉をなくした。
「ただ、これ以上のお調べをお望みではないとも伺いまして」
「私は、そうは申し上げていません」
「静蘭さまも、ご自身のなさったことが、あまり騒ぎになるのをお嫌がりです。お心をお察しになってくださったのでは」
また、ほかの方の名前が出た。
静蘭さまは、あの紙へ一緒に筆を下ろしてくださった。
「そのお話は、静蘭さまが直接なさったのですか」
「お優しい方ですから、尋ねられてもご自分は構わないとお答えになるでしょう。でも、嫌だとは申しにくいお立場ですもの」
静蘭さまが反対していると言いながら、本人に尋ねて賛成したとしても、本心ではないと決めてしまう。
どんな返事でも、許女官の説明は変わらないのだ。
先生が包みを引き寄せた。
「紙の品質については、こちらでも正式に確認を求めています。姫君のお気持ちと、納められた品が違った理由は別です」
先生は、同じことが起こらないよう、調査を望むとおっしゃった。
「もちろんです。お家の面目が損なわれませんよう、慎重に進めております」
「では、私の名で調査を取り下げる文は出さないでください」
言えた。
許女官は何も答えず、最後には丁寧に一礼した。
控えの間を出る前に、先生が納入元を尋ねた。
「周家でございます」
周侍郎さまの家だ。
実家の後援者が扱う紙なら、悪い品を納めたという噂が広まったとき、どうなってしまうのだろう。
廊下へ出ると、小桃がそっと尋ねた。
「姫さま、大丈夫でございますか」
「分かりません。でも、聞かなければ、私が良からぬ理由で調査を取り下げたことになってしまいます」
小桃は頷いて、私の荷を持ち直した。
*
次の斎戒まで六日あった。
用度から先生へ届くのは、候補の意向を確認している、という返事ばかりだった。
静蘭さまは本当に、調査を望んでいらっしゃらないのだろうか。次の休日には、三人に直接確かめよう。
休日の朝、小桃が包んでくれた砂糖と薄焼きを籠へ入れた。
「今日は、こちらでよろしいですか」
小桃は少し多めに詰めてくれた。
今日こそ、鏡の中で確かめよう。
*
鏡をくぐると、静蘭さまが氷の入った器を卓へ運んでいた。
「杏鈴、砂糖ある?」
「はい。でも、その前に確かめたいことがあります」
静蘭さまは器を置かれた。私は許女官に言われたことを、できるだけ言葉を変えずに話した。
「まだ調査が進んでないんだ」
「静蘭さまが、騒ぎになるのをお嫌がりだと伺いました」
「私、そんなこと言ってないよ」
「私にも別のことが伝わっている」
紅玉さまが冊子を閉じた。
「麗華が荷の搬出を尋ねるなと申している、と」
「私は、紅玉が事を荒立てたくないと聞いたわ」
麗華さまが茶碗を置かれた。誰がいつ何を言ったか、四人で順番に確かめてみる。驚いたことに、一つとして元の言葉に辿り着く伝言がなかった。
「私たちが、本人に直接聞かないと思っていたのかな」
静蘭さまが匙を握ったまま呟く。
「それぞれが遠慮すれば、誰ももう紙の話をしなくなる」
「遠慮させるために、互いの名前を使ったのね」
麗華さまの声が冷たくなった。
「何かを隠すために」
沈黙が起きた。
「どのお話も、許女官から伝わったものなのですね」
私が尋ねると、三人が頷いた。
「では、なぜそのように伝えたのか、ご本人に伺います」
「待って、杏鈴」
麗華さまが私を見た。
「調べてほしくない理由があるのなら、尋ねても、素直には答えないでしょう。これ以上は、調査をする方に任せた方がいいわ」
「はい。でも、私が調べなくてよいと言ったことは、訂正していただきたいのです」
「そのために、あなたが直接お会いする必要はないでしょう」
「ええ、でも訂正しなければ、また別の意味に受け取られます」
麗華さまの指が、茶碗の縁で止まった。
「わざと話を変えている相手なら、あなたが何を言っても、都合のよいように使うかもしれないのよ。あまり首を突っ込むのは危ないわ」
「危ないことをするつもりはありません」
「危険というのは、するつもりがなくても起きるものなのよ」
麗華さまの声が強くなった。
「許女官への訂正は、私から鄭女官へ伝えます。あなたは、もう直接話さないで」
「私から、お話しします」
「杏鈴」
名前を呼ばれ、膝の上で指を握った。
「麗華さまが心配してくださるのは、分かります。でも、どうするかまで決めないでください」
麗華さまは、口を閉じられた。
言い過ぎたかもしれない。けれど、ここで頷けば、また自分で話せなくなる。
「……先生に同席していただきます。一人では伺いません。それでも、私から訂正をお願いしたいのです」
麗華さまは、しばらく茶碗へ目を落としていらした。
「必ず、そうして。お一人では行かないと、約束してちょうだい」
「はい」
指をほどいた。麗華さまは、まだ私をご覧にならなかった。
静蘭さまが一度だけ麗華さまを見て、それから器を引き寄せた。
「氷の飲み物、作ろう」
「もう話は終わりか」
「終わったわけじゃないよ、紅玉。でも、このままだと休日が全部紙の話になる」
紅玉さまは冊子を膝へ戻された。
「今日の物語は、やめておく」
「なんで?」
「皆が話す気分ではないだろう」
静蘭さまは少し笑った。
「それも、勝手に決めないでよ。読みたいかどうか、聞いて」
紅玉さまは真面目に頷いた。
「では、読んでほしいか」
「今日はお茶飲んでからね」
私たちは器を持った。氷はちゃんと冷たく、甘みもちょうどよかった。それでも、麗華さまの茶碗が空になるまで、誰も紙の話には戻らなかった。
*
二日後、用度から呼ばれ、私は調査を望んでいると改めて答えた。
ほかの三人も、一人ずつ意向を確かめられたという。
四人とも調査を望んでいない、と許女官が提出していた書付は、訂正されることになった。
さらに翌日、鄭女官から、庫に残る紙が納入時の見本と違っていたと聞いた。外へ運び出された箱についても、引取人から話を聞くそうだ。
廊下の角に差しかかると、宦官が一人の男に荷を開かせていた。
紐が固く結ばれている。男は腰の小刀を抜き、紙の包みを傷つけぬよう、刃を紐の下へ入れた。慣れた手つきだった。
「北の荷口で引き取った方です」
鄭女官が小声で教えてくださった。
男は顔を上げ、私を見た。それから小桃へも目を向けた。
なぜか嫌な感じがした。
男は宦官に促され、庫の奥へ入っていった。
紙の質だけを問題にしたかったのではない。許女官は、私が調べなくてよいと言ったことにまでしていた。
紙を替えれば、それで終わるはずの話だったのに。
あの紙が配られた理由を確かめられると、いったい何が困るのだろう。




