第10話 同じ紙のはずでした
斎戒がある日は、鏡へ行くのが待ち遠しい。
今日は斎戒の日ではない。午前の養氣の検査を終え、午後の仙術の稽古へ向かう足取りは軽かった。
入宮前にも受けた養氣の定期検査で、以前よりも蓄えられる氣が増えていると教えられたのだ。検査は数か月に一度だが、今回はちょうどその時期に当たった。検査を担当する女官は記録を確かめ、まだ少しずつではあるが、ちゃんと変化があると告げた。
鏡の中で、私たちは茶を飲み、菓子を食べ、時には眠っていた。それでも効用があると三人は言っていたけれど、こうして自分の結果を見ると、ようやく実感できた。
「氣が増えても、すぐに使いこなせるようになるとは限りません。稽古はこれまでどおりお続けください」
検査役の女官が念を押した。
「はい。承知しております」
私はまだ、符なしで水を冷やすこともできない。けれど、少しずつできることは増えている。
昼の膳を終え、仙術の稽古場へ向かう途中、庭へ下りる廊下で紅玉さまと行き合った。午後は弓の稽古だと伺っている。
互いに会釈を交わしたところで、曲がり角の先から声が聞こえた。
「その紙は北の荷口へ。外の引取人に渡す分です」
用度を預かる許女官の声だった。
「稽古場へ運ぶ分とは別でございますね」
「ええ。間違えないように」
角を曲がると、少し先の庭を二人の運び手が歩いていた。両手で抱えた箱には布が掛けられ、端から厚い紙の包みが覗いている。
紅玉さまは庭へ下りる手前で足を止められた。運び手が通り過ぎるまで、私も隣で待った。
符用紙だろうか。宮中で使うあの上等な紙が、もし箱いっぱいに入っているなら、いったいいくらになるだろう。
店では紙を束で数え、仕入れ値を帳面につけていた。つい枚数と値を考えてしまったが、包みを見ただけで品まで分かるわけではない。
箱が通り過ぎると、紅玉さまは庭へ下り、弓場へ向かわれた。私も仙術の稽古場へ歩き出した。
*
稽古場に着くころには、運び手のことなど忘れていた。今日は昨日より細い線が書ける気がしていた。
帳面の罫線なら、店で何度も引いてきた。太さも間隔も揃える手つきは、手が覚えている。先日の書の課題では、三人にも手元を見ていただいた。
符の図はまだ覚えているところだが、線を引くことには自信がある。私にできることを、今日も一つ増やしたかった。
*
線が、途中で途切れた。
目を近づけると、墨が乗らず、紙の白いところが残っている。もう一度、穂先を確かめた。毛は割れていないし、墨も足りている。
普通紙では、こんなことは起きなかった。
紙の端で試すと、そこは書けた。次の曲がりでは、また細くなる。
私は筆を置いた。
試し書きの線を指でなぞると、引っかかるところと、滑りすぎるところがあった。同じ束なのに、手触りが揃わない。
家の店の紙なら、まず紙を替える。けれど、ここで使っているのは、氣を留めるための高価な符用紙だ。勝手に捨ててよいものではない。
「先生。紙を替えていただいてもよろしいでしょうか」
先生が私の図を見てくださった。
「墨の量が揃っていないのでしょうか。まず、筆を整えてもう一度」
教わったとおりにした。少しだけ強く押さえると、今度は線が太くなり、隣とつながってしまった。
「……申し訳ございません」
普通紙を一枚引き寄せ、余白へ同じ太さの線を三本引いた。最後まで、思ったとおりに揃う。
符用紙へ戻ると、やはり途中で白く抜けた。押さえる力を変えても、墨の量を変えても、普段のようには書けない。
午後までに三枚を使い、使えるものは一枚もできなかった。
細い線が引けなくなったわけではない。この紙でだけ、筆の運びと墨の跡が合わないのだ。
私は先生にお願いして、練習用に符用紙を持ち帰らせていただいた。
*
稽古の帰り、弓場から出てきた紅玉さまとすれ違った。
紅玉さまは私を見ると、足を止められた。
鋭い目が、まっすぐこちらを向いている。
私は慌てて背筋を伸ばし、一礼した。
「お疲れさまでございます」
紅玉さまは何もおっしゃらなかった。ただ、私の顔をじっと見つめていらした。
背後で、女官が小さく笑う声がした。
そう見えるのも無理はない。今日の私は符を一枚も仕上げられず、肩を落として歩いていたのだから。
けれど、私は知っている。
鏡の中でも、紅玉さまは誰かを心配するとき、こんな顔をなさる。
私はほんの少しだけ頷いた。
紅玉さまはそれを見届けると、何事もなかったように歩き去られた。
次の休日には、うまく書けなかったことをお話ししよう。
用度の建物へ続く廊下で、先ほど紙の手配をしていた許女官が小桃の持つ紙の包みへ目を向けた。
「お部屋でも練習されるのですか?」
「はい、まだ符を描くのに慣れておらず」
「杏鈴さまには、練習の分を多めにご用意した方がよさそうですね。符作りは、ふだんお書きになるものとは違いますもの」
やはりそうなのだろうか。
「ほかの姫さま方のようにとは、すぐには参りません。初歩から、ゆっくりお覚えになればよろしいのです」
礼をして、小桃と廊下を進んだ。
部屋へ戻ると、小桃が筆を洗ってくれた。
「姫さま、お疲れでしょう」
「ええ。今日は少し」
言いながら、筆の穂先を確かめた。先は整っている。
紙を手に取って、透かしてみた。
私の実家では、同じ銘柄の紙でも、束によって手触りが違うことがあった。父は仕入れ先へ尋ねる前に、いつ、誰が、どの束を出したのかを帳面で確かめていた。
あるとき、私が客へお渡しした紙に染みがあった。私は雨の日に荷を濡らしてしまったのだと思い、父へ謝った。
けれど父は、濡れた場所が箱の外側なのか、紙の間なのかを順に確かめ、最後に「これはお前が運んだときの雨ではない」と言った。仕入れたときから箱の底に濡れ跡があったのだ。
間違いを見つけるためには、先に間違いだと決めないこと。
父が何度も言っていた言葉だった。
書き損じた紙と、普通紙の練習を並べた。三人なら、私よりずっと符用紙を扱い慣れていらっしゃる。次の休日に持っていこう。
*
休日の昼、鏡の先へ行くと、静蘭さまは座布団を抱えていた。
「遅かったね。お菓子、何?」
「果物を入れた焼き菓子です」
「やった」
静蘭さまが皿を寄せた。紅玉さまは冊子を開きかけている。麗華さまは長椅子へ脚を伸ばし、少し疲れた顔をしていた。
「今日はお疲れなのですか」
「昨日、稽古が長引いたの」
「麗華さまでも?」
「私でもよ。……何かおかしいかしら」
「いえ、少し安心しました」
麗華さまが笑う。
「それは、よいことをしたのかしら」
「はい。たぶん」
茶が入ると、紅玉さまが私へ尋ねた。
「それで、仙術の鍛錬で何かあったのか」
「……覚えていらしたのですね」
「ずいぶん元気がなさそうだったからな」
私は稽古場での失敗を話した。筆を押しつけるほど墨が広がり、軽くすると線が抜けること。使える紙を何枚も無駄にしたこと。




