第23話 丘の先に見えるのは
シュミートを発ってから数日。鉱山地帯特有の灰色がかった岩肌と鉄の匂いはいつしか遠ざかり、ディーンたちの周囲には柔らかな緑が広がっていた。【ブルーメの丘】と呼ばれるこの一帯は、いくつもの低い丘陵が波のように連なり、その斜面を春から夏にかけて咲く色とりどりの草花が覆っている。白、黄、青、薄紫。吹き抜ける風に合わせて無数の花が一斉に傾けば、それは巨大な絨毯がゆっくりと波打っているようにも見えた。頭上にはどこまでも澄んだ青空があり、遠くでは小さな鳥が円を描いて飛んでいる。鍛冶の町シュミートで起きた激戦など、ずっと昔の出来事だったのではないかと思わせるほど、その景色は穏やかだった。
「いやぁ、それにしてもいい天気だねぇ」
のんびりとした声を響かせるリューマは、いつもの和装の裾を風になびかせながら、実に上機嫌だった。口元には軽薄とも余裕とも取れる笑みを浮かべ、すぐ横を進んでいるアリアへちらりと視線を送る。
「アリアちゃん、俺様アリアちゃんと一緒に旅が出来て、すっごく嬉しいよ」
「は、はぁ……私もです」
アリアは困ったように笑いながら答えた。嫌っているわけではないし、一緒に旅をする仲間になった以上、無下にするつもりもない。ただ、どうにもこの男は距離の詰め方が独特である。しかも冗談なのか本気なのか分からない顔で言ってくるため、どう返事をすればいいのか判断に困る。
そんなアリアの困惑など気にした様子もなく、リューマは続けた。
「この丘を抜けたらさ、二人でデートしようよ。ほら、知らない土地を二人で歩くってのも旅の醍醐味じゃない?」
「そういうのはちょっと……」
今度は先ほどより明確に引きつった笑顔で断る。
「ありゃ、残念」
リューマはあっさり引いた。しつこく食い下がる様子はなく、むしろ「また今度ね」とでも言いたげに肩をすくめる。
その横から、低い声が飛んできた。
「おいオッサン、いい加減にしろ」
ディーンだった。
少し前を進んでいたはずの彼はいつの間にかアリアの横へ並び、半眼でリューマを睨んでいる。
「えぇ? 何? 青年」
リューマは悪びれることもなく首を傾げた。
「別にアリアちゃんは青年のって訳じゃないでしょ? オッサンがデートに誘ってもいいじゃん」
「そういうことじゃなくてな……」
ディーンは一度大きく息を吸った。そして、なぜか進行方向とは逆へ顔を向ける。
「こういう状態でそんな話すんじゃねぇ!!」
その怒鳴り声と同時に、読者がようやく気づくべき現実がそこにあった。
三人と一人は、最初からずっと走っていたのである。
しかも散歩どころか、ほとんど全力疾走だった。
ディーンたちの背後、花が咲き乱れるブルーメの丘を踏み荒らしながら、巨大な魔物の群れが迫ってきている。馬ほどの体格を持つ獣型魔物が十数体。全身を灰色の毛皮に覆われ、頭部からは湾曲した角が左右へ伸び、四肢で大地を叩くたびに花弁と土が盛大に舞い上がる。その走りは速く、しかも一度こちらを標的と認識してからというもの、諦める様子がまったくなかった。
「だって走ってるだけじゃ暇じゃない?」
「暇じゃねぇよ! 後ろ見ろ! めちゃくちゃ追ってきてるだろうが!」
「まぁねぇ」
「まぁねぇじゃねぇ!」
ディーンは走りながら瑠璃椿姫を抜き、振り向きざまに先頭の魔物へ刃を走らせた。刀身は確かに魔物の肩口へ命中した。しかし斬撃が肉へ食い込む寸前、魔物の表面に薄い幾何学模様が浮かび上がり、まるで硬い壁へぶつかったような衝撃と共に刃が弾かれる。
「チッ! やっぱ斬れねぇ!」
ディーンはその反発を無理に止めず、体を半回転させながら再び前へ向き直る。着地と同時に速度を落とすことなく走り続けた。
「おいオッサン! あの魔物、何で斬れないんだ!?」
「あの魔物には耐物理の術式が組み込まれてるのよ」
リューマは息一つ乱さず答える。
「耐物理?」
「そうそう。斬撃、打撃、刺突なんかの物理的な力を術式で分散させるの。中途半端な攻撃なら、ほとんど通らないよ」
「何か対抗手段は無いのか?」
ガルムが尋ねる。巨体でありながら走る速度は驚くほど速く、一歩ごとに数メートルを稼いでいる。ただし背中の二振りの大剣が揺れるたび、地面へ響く足音が他の三人より明らかに重い。
「んん~、そうだねぇ……」
リューマは顎へ指を当て、本当に考えているような顔をした。
「今の君たちにはない!」
「そんなはっきり言うな!」
ディーンが叫ぶ。
「今の俺たちって、どういう……」
ガルムが問い返そうとした、その瞬間だった。
「あ、崖だ」
リューマが前を向いたまま言った。
「えぇ!?」
アリアの悲鳴が上がる。
丘陵の獣道は突然そこで途切れていた。草花に隠されて直前まで見えなかったが、十数メートルほど先から地面が大きく落ち込み、その向こうには深い谷が広がっている。
「何でもっと早く言わねぇんだよ!」
「今気づいたんだからしょうがないでしょ!」
「そんな呑気な!」
アリアが青ざめる。
止まるには距離が足りない。
後ろには耐物理の魔物の群れ。
前には崖。
「アリア!」
ディーンが横へ飛び、アリアの腰へ腕を回した。
「きゃっ!?」
「掴まってろ!」
そのまま地面を蹴る。崖際に生えた太い木の幹へ片足をつき、反動を使ってさらに高く跳躍すると、張り出した枝へ着地した。
同時にリューマも別の木へ軽々と飛び乗る。踏み切りらしい踏み切りすら見せず、風に運ばれた木の葉のように枝の上へ降り立った。
「ぬおっ!」
問題はガルムだった。
その巨体と装備の重量では枝の上へ飛び移るのは難しい。咄嗟に跳んだものの、高さが足りず、リューマが乗った木の太い枝へ片手でしがみつく形になった。
ガルムは無言のまま、太い枝に片手でぶら下がり続けていた。表情一つ変えず、ただ静かに体重を支えながら状況を見下ろしている。
その直後、追ってきた魔物たちが次々と崖へ到達した。
先頭の一体が急停止しようと四肢を踏ん張るが、後ろから押し寄せる仲間によって背中を押される。
「グオオッ!?」
一体が落ちる。
続いて二体目。
三体目。
止まり切れなかった群れがまるで雪崩のように崖から次々と転落していった。谷底から鈍い衝突音と獣の悲鳴が連続して響き、やがて何も聞こえなくなる。
少しの沈黙。
「……助かったぁ」
アリアがディーンの腕の中で大きく息を吐いた。
「危なかったな」
「うん……本当に……」
そこでようやく自分が抱えられたままだと気づき、アリアが少し慌てる。
「ディーン、もう大丈夫だから降ろして」
「おう」
ディーンは深く考えず枝の上へ降ろした。
一方。
「ガルム君早く降りてくんない?」
「何故だ?」
「何故ってわかるでしょ?ほら」
ミシッ。
三人の視線が枝へ向く。
「……今、嫌な音しなかった?」
アリアが呟く。
ミシミシミシ。
リューマが下を見る。
ガルムも上を見る。
「分かったでしょ?」
「あぁ」
バキィッ!!
「ぬわぁぁぁぁ!?」
枝が根元から折れ、リューマは悲鳴を上げながら地面へ落下した。
対してガルムは空中で体勢を整え、両足で着地する。地面が僅かに沈んだものの、本人には怪我一つない。
リューマだけが背中から地面へ激突した。
「あいてッ!!」
「オッサンかっこ悪いな……」
木から降りてきたディーンが呆れたように言う。
「青年ひどくない!?オッサン泣いちゃう」
「泣いても可哀そうでも何でもないぞ」
「青年冷たい!!」
アリアも木から慎重に降り、肩を震わせながら笑っていた。魔物から追われていた緊張が一気に抜けたせいか、先ほどまでの恐怖が嘘のように感じられる。
ガルムは崖下を確認した後、淡々と告げた。
「追手は全滅したようだ」
「よし。ならさっきの話の続きだ」
ディーンが間髪入れずリューマを見る。
「何?」
「今の俺たちには耐物理を突破する方法がないって言っただろ。『今の』ってどういう意味だ?」
「そんなこと言ったっけ?」
「言った! ついさっき!」
「いやぁ、オッサン年だから記憶がねぇ」
「数十秒前のこと忘れるな!」
「気のせいじゃない?」
「絶対はぐらかしてるだろ!」
ディーンが詰め寄るが、リューマは笑いながら立ち上がり、服についた土を払うだけだった。
ガルムはそんな二人を横目で見ながら、少しだけ考える。
耐物理の術式。
今の自分たちでは突破できない。
ならば目の前の男には、その先が見えているということになる。
実際、先ほどの逃走中もリューマには焦りがなかった。魔物の性質を知っているだけではない。もし必要なら、自分一人で処理できると分かっていた者の余裕にも見えた。
「……」
「ん? ガルム君、オッサンの顔に惚れた?」
「気のせいだ」
「冷たい」
それ以上ガルムは追及しなかった。
小休止を挟み、一行は再びブルーメの丘を進み始めた。
今度は魔物に追われていないため、歩調はゆっくりとしている。先ほどまで駆け抜けていたせいで気づかなかったが、この場所は旅路としてはかなり美しい。丘を越えるたび景色の形が少しずつ変わり、黄色い花が多い斜面を抜ければ、次は青い小花の群生地が現れる。遠くには風に回る古い風車が一基だけ立っており、そのさらに向こうには鳥の群れが空を流れていた。
「……しかしオッサン、本当に何でも知ってんな」
ディーンが歩きながら言う。
「何が?」
「あの魔物のことだよ。俺たち三人とも知らなかったぞ」
「旅が長いからねぇ。青年たちよりちょっとだけ人生経験が豊富なの」
「ちょっと?」
「ほんのちょっと。オッサンまだピチピチだから」
「どこがだよ」
「ひどいなぁ。ねぇアリアちゃん、オッサン若く見えるよね?」
「え、えっと……元気には見えます」
「ほら!」
「若いとは言われてないぞ」
「青年は細かいなぁ」
またくだらない会話が始まる。
アリアはそのやり取りを見ながら、小さく笑った。
シュミートを出るまでは三人だった。
今は四人。
人数が一人増えただけなのに、旅の空気が随分変わった気がする。ガルムは基本的に口数が少なく、ディーンも必要以上に喋る方ではない。そこへリューマが入ることで、沈黙になる暇がなくなった。
「でも、こういうのも楽しいね」
アリアがぽつりと言う。
「何がだ?」
「旅」
ディーンが横を見る。
アリアは丘を吹き抜ける風に髪を揺らしながら、周囲の景色を眺めていた。
「アントスにいた頃はね、外の世界って本とか旅人さんのお話の中にしかなかったから。シュミートみたいな町があることも、ドワーフさんがあんなに力持ちなのも知らなかったし、あんな大きな魔物がいることも知らなかった」
「それは知らないままでも良かったんじゃないか?」
「ふふ、それはそうかも」
アリアは笑う。
「でも、知らなかったものを自分の目で見るって、すごく楽しいよ」
「……そうだな」
ディーンは前を見る。
自分が旅に出た理由は修行だ。
強くなる。
外の人間と戦う。
家で教わった技を実戦で試し、自分に足りないものを知る。
そのために外へ出てきた。
けれど、それだけではないのかもしれない。
「俺も外に出るまでは、こんなに色々あると思ってなかったからな」
そう言ったディーンの視線の先で、丘の稜線がゆっくりと途切れた。
それまで続いていた緩やかな起伏がふっと消え、代わりに空と地面の境界が曖昧になるほどの広がりが現れる。風の音が一段と強くなり、草の擦れる音が途切れた瞬間、世界そのものが開けたような感覚が一行を包んだ。
やがて獣道が途切れた。
視界を塞いでいた草木が途切れ、一気に空が広がる。
そして。
その先にあったものを見た瞬間、ディーンとアリアは同時に立ち止まった。
「…………」
「…………」
二人とも言葉が出ない。
ブルーメの丘の頂上。
そこから見える景色は、これまで二人が見てきたどんなものとも違っていた。
遥か眼下。
丘の向こう側いっぱいに、巨大な青が広がっている。
空ではない。
大地でもない。
陽光を受けて無数の光を反射しながら、青い何かが地平線の果てまで続いている。表面には白い線が幾重にも生まれては消え、遠くでは小さな船らしき影がゆっくりと動いていた。
「……なんだ、あれ?でっかい……水溜まり?」
ディーンがようやく声を出した。
アリアも呆然としている。
ガルムが二人の顔を見る。
「お前たち、本当に海を知らないのか?」
「これが海?」
アリアが目を丸くする。
「そうだ」
ガルムは丘の先へ視線を向けた。
「湖とは違う。遥か遠くまで続く巨大な水域だ。この先には別の土地も国もある。船で渡らなければ行けない場所もな」
「……向こうまで全部、水なのか?」
「あぁ」
「マジかよ……」
ディーンは丘の縁へ近づいた。
風が下から吹き上げてくる。
これまで嗅いだことのない、僅かに塩気を含んだ湿った匂いが鼻をくすぐる。遠くから一定の間隔で響いてくる波の音は、まだ小さくしか聞こえない。それでも大地そのものが呼吸しているような不思議な響きがあった。
アリアも隣へ並ぶ。
「すごいね……ディーン」
「あぁ」
「本当に、どこまで続いてるんだろう」
「さぁな」
ディーンは目を細めた。
「でも、行ってみたくなるな」
修行をするために外へ出た。
強い奴と戦えれば、それでいいと思っていた。
けれど今。
初めて見る海を前にしていると、それだけでは勿体ないと思えてくる。
世界は広い。
自分の知らない景色がある。
知らない種族がいる。
知らない技術があり、知らない魔物がいて、自分より強い者さえいる。
知らないということが、これほど面白いものだとは思わなかった。
「外に出るのも、悪くねぇな」
ディーンがぽつりと呟く。
「そうだね」
アリアが笑う。
「最初は修行しか頭になかったんだよ」
「今は?」
「修行もする。でも、せっかくなら色々見て回りたいな」
「うん!」
アリアの声が明るくなる。
「私も!」
その横で、リューマが懐から煙管を取り出した。
「ちなみにねぇ。この丘を下って街道を進めば、途中に町が二つほどある。そこを経由すればトラーニュだよ」
「お、もうそんな近いのか」
「順調なら数日ってところかな」
「トラーニュも海に面しているんですよね?」
アリアが聞く。
「そうそう。大きな港があってねぇ。船も人も物も、嫌になるくらい集まってる。青年たちにはちょうどいいんじゃない?」
「へぇ……」
ディーンは改めて海を眺めた。
この青の先に、まだ知らない世界がある。
その事実だけで胸の奥が僅かに熱くなる。
「よし!行くか、トラーニュへ」
「うん!」
アリアが元気よく頷く。
「あぁ」
ガルムも短く答えた。
「オッサンもいるよ?」
「分かってるよ!」
「扱い雑じゃない?」
「自業自得だろ」
くだらないやり取りをしながら、四人は丘を下り始める。
花々が風に揺れ、彼らの背中を見送るように一斉に頭を傾けた。
その向こうでは、果てしない海が午後の陽光を受け、数え切れない光を散らしている。
旅はまだ始まったばかり。
知らない町。
知らない人。
知らない強さ。
そして、まだ見たことのない世界。
丘の先に広がっていた青は、これから続いていく旅そのもののように、どこまでも果てなく広がっていた。
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第23話 了




