数えていたか
十二度目の木曜は、五月の最後の木曜だった。
家族の行き先は、川向こうの侯爵家で開かれる午後の音楽会だった。今日の音楽会には閣下がお見えになるらしい、と、侯爵夫人ご自身が先週の夜会で話して回っていたそうだ。
「侯爵夫人がおっしゃるのだから、間違いないわ」
母は玄関の広間で、姉の首飾りの留め金を何度も確かめた。
「あそこのお嬢様も、閣下をお待ちしているのよ。負けてはだめ。今日こそ、マルグリートが先にお目にかかるの」
「はい、お母様」
姉は胸を張り、父はそのあとから、少し疲れた顔で帽子をかぶった。ここのところ、父は毎週のように、閣下を探して馬車に揺られている。
「いってらっしゃいませ」
私はいつもどおり膝を折った。
(閣下は、たぶん今日も、侯爵家ではなくてこちらなのだけれど)
呼び鈴も、いつもどおりの時刻に鳴った。
◇
その日の閣下は、手ぶらだった。
ここしばらく、閣下は来るたびに、上着の隠しか脇に何か一つ持っていらした。旅行記の下巻、巻貝、季節の果物、閣下の領地で作るという塩の小さな壺。それが今日は、何もなかった。
「今日は、お手土産がないのですね」
言ってから、なんて卑しいことを口にしたのだろうと思った。けれど閣下は、責めるでもなく頷いた。
「ない」
ネルがお茶を運んできて、レモンを添えた。閣下は、カップに手をつけなかった。焼き菓子にも。ネルが心配そうに一度振り返ってから下がっていった。
閣下は、膝の上で両手を組んでいた。窓の外も見ていなかった。私のほうを、まっすぐ見ていた。
「数えていたか」
何を、とは聞かなかった。
「十二回目です」
「次に伯爵が家にいる日に、君に結婚を申し込みに来る」
部屋の隅で、ヘッダの針が止まった。
私は、すぐには息ができなかった。暖炉の上の時計が、耳のすぐそばで刻んでいるように聞こえた。
「その前に、君の返事を聞いておきたい。伯爵の答えより先に」
閣下の声は、いつもと同じ調子だった。お茶の好みを聞かれるときと、同じ。けれど、組んだ手の指先が白くなっていた。
私も、膝の上で指を組み合わせた。
十二回分の木曜が、一つずつ順に浮かんできた。雨の日の泥だらけの裾。耳の奥で寄せては返した音。父の手紙を読んで、声を出さずに肩を揺らしていた閣下。木曜まであと何日かを数えている、と言った閣下。そして、誰も、誰のことも紹介しなかった、この小客間。
留守番を頼まれたら、来た人は私がお迎えする。
閣下は、来てくださった。十二回も。
「はい」
閣下の肩から、すうっと力が抜けた。そして、はっきり声に出して笑った。
この方の笑い声を、私はそのとき初めて聞いた。肩だけで笑う方だと思っていたのに、思いがけないほど若い声だった。
「……どうして、私なのですか」
笑いがおさまるのを待って、私は聞いた。聞いておかなければ、あとで夢だったと思ってしまいそうだった。
「君は、一度も私を誰かに引き合わせようとしなかった」
閣下は指を折るように言った。
「家族の行き先を、聞けば全部答えた。四時になると、帰れと言った。帰れと言われて、次の木曜にまた来たくなる家は、王都でここだけだった」
それは、私が留守番として当たり前にしてきたことばかりだった。当たり前のことを、一つずつ数えていてくださった方がいた。
ヘッダの針が、また動き出した。今度は、少し速く。
四時の鐘が鳴るまでに、閣下は冷めたお茶を飲み干しておかわりをなさり、焼き菓子の皿をすっかり空にした。
◇
家族が戻ったのは、夕方だった。
「侯爵夫人ったら、あんなに言っておいて、閣下はいらっしゃらなかったじゃないの」
母は外套を脱ぎながら、侯爵夫人への不満を並べ続けた。姉は不機嫌に黙ったまま、手袋を投げるように私に渡した。
その夜、私は居間の母のところへ行った。
「お母様。公爵閣下が、次にお父様がご在宅の日に、私に結婚を申し込みにいらっしゃいます」
母は目を丸くした。それから、ころころと笑い出した。
「まあ、リーケ。留守番が長すぎて、夢でも見たのね。閣下はマルグリートによ」
「留守番の娘に求婚する公爵が、どこにいるの」
姉は鏡台の前で、耳飾りの留め具を外しているところだった。鏡の中の姉は、私のほうを見もしなかった。
「でも、ちょうどいいわ」
母が手を打った。
「マルグリートの誕生日の夜会に、閣下をお招きしましょう。来週の木曜よ。その晩なら、お父様も家にいらっしゃるもの」
「うむ。木曜なら、私も家におる。閣下にも、そうお返事したのだからな」
父は新聞をめくりながら、どこか得意げに言った。
(その晩なら、たしかに、お父様は家にいらっしゃるわね)
私はそれ以上何も言わずに、居間を出た。
招待状は、翌朝、母の手で書かれて公爵家へ届けられた。
閣下からの返事は、その日のうちに来た。
木曜なら、伺う。




