家にいるのに、留守番ですか
姉の誕生日の夜会は、六月の最初の木曜の晩に開かれた。
朝から、玄関の広間には花が運び込まれ続けた。大広間の床は磨き上げられ、楽師たちが昼過ぎから音を合わせている。家族が木曜の夜をそろって家で過ごすなんて、私の知る限り一度もなかった。
夕方、台所を覗くと、ミーナがいつもどおり胡桃の焼き菓子を焼いていた。夜会のための小さな菓子は昼のうちに菓子屋から届いていて、台所の棚に何段も並んでいるのに。
「ミーナ、今日はそれは要らないのではないかしら」
「木曜ですから」
ミーナはそれだけ言って、天板を窯へ押し込んだ。
廊下で会ったネルが、遠慮がちに私を呼び止めた。
「お嬢様、レモンは切っておいてよろしいですか」
「……今夜は、お客様が多いから」
私はそれだけ答えた。ネルは「はい」と頷いて、台所へ戻っていった。切らなくていいとは、言わなかった。
◇
支度を終えた母が、階段の下で私を呼んだ。母は淡い紫のドレスに、いちばん上等な紫水晶の首飾りをかけていた。
「今夜は、あなたは小客間にいなさい」
「お客様の前に、出なくてよろしいのですか」
「出なくていいわ。マルグリートの夜なのよ。あなたがいると、話がそちらへ逸れるでしょう」
「家にいるのに、留守番ですか」
「そうよ」
母は迷いなくそう言って、玄関のほうへ花の具合を見に行った。
(新しい種類の留守番ね)
家の中にいて、家族も家にいて、それでも私は留守番らしい。
階段の上から、姉が下りてきた。今夜のために誂えた薔薇色のドレスに、真珠を首に二重に巻いている。姉は私の水色の普段着を、上から下まで眺めた。
「留守番には、それで十分ね」
私は膝を折って、姉を通した。
◇
私は小客間へ下がり、窓際の自分の椅子に腰を下ろした。部屋の隅にはヘッダが針箱を置いて座り、繕い物を膝に広げている。扉は、玄関の広間へ向けて大きく開けてある。木曜の午後と、何ひとつ変わらない並びだった。
開いた扉から、玄関の広間の物音がそのまま流れ込んでくる。馬車が着くたびに、ベルトラムが客の名を告げ、母のよそ行きの声と、父の朗らかな笑い声がそれに続く。大広間からは、姉の竪琴の音が流れてきた。拍手。また馬車。また拍手。
ファン・ホーフ子爵夫人の声がした。床を突く杖の音は、きっと向かいの男爵様だ。私が木曜にお茶をお出ししたことのある方の声が、ほかにもいくつか混じっていた。
小客間の戸口のそばを、二人連れのご婦人が、声を落として通り過ぎていった。
「そういえば、こちらのお宅は木曜が在宅日でしたわね。伺うたびに、奥様はお留守で」
「しっ。今夜は、お嬢様のお誕生日よ」
くすくす笑う声は、広間のざわめきの中へ紛れていった。
(皆様、今夜はお姉様のお客様ね)
閣下も、今夜はいらっしゃるはずだった。夜会に出れば、端から紹介される。それがお嫌で、夜会に出なくなった方だ。今夜はきっと、玄関に着いたとたんに、母と姉に挟まれてしまう。
私は膝の上の本を開いた。けれど、同じ行を何度読んでも、少しも頭に入らなかった。
夜も深くなったころ、広間のざわめきが、ふっと一段低くなった。それから、別の高さで膨らんだ。
「公爵閣下よ」
「まあ。夜会にお出になるなんて、何年ぶりかしら」
家族の足音が、慌ただしく広間の中ほどへ向かう。
「閣下、ようこそお越しくださいました!」
「娘のマルグリートでございます。これまでたびたびお運びいただきましたのに、娘が留守がちで、本当に失礼を」
母の声は、私が聞いたことのあるうちで、いちばん高いところまで上がっていた。
お帽子をお預かりいたします、というベルトラムの低い声がした。続く言葉も、十二回の木曜に聞いたのと、一語も違わなかった。
「閣下、いつもの小客間でございますね。リーケお嬢様がおいでです」
広間が、しんと静まった。
「ベルトラム、何を――」
「ああ。いつもの部屋で頼む」
靴音が、迷いなくこちらへ向かってくる。姉の声の前を過ぎ、母の声の前を過ぎて。
戸口いっぱいに、墨色の上着が現れた。閣下の肩越しに父と母と姉の顔があって、その向こうには、つま先立ちのお客様の顔が幾重にも重なっていた。
私は本を閉じて立ち上がり、膝を折った。
「いらっしゃいませ、閣下。今日は、父も母も在宅しております」
「知っている。十三回目で、ようやくだ」
その人垣の脇をすり抜けて、ネルが盆を運んできた。盆の上には、レモンの小皿を添えたお茶と、ミーナが夕方に焼いた胡桃の焼き菓子。誰が言いつけたわけでもない。ネルは窓際の、閣下がいつも座る椅子の前にそれを並べ、顔を上げたところで母と目が合って、真っ青になって引き下がった。
閣下は椅子には目もくれず、父に向き直った。
「伯爵。ようやくお目にかかれた。お話がある。どこか静かな部屋で」
父は、待ちかねていたという顔になった。
「いえいえ、閣下、ここで伺いましょう! 今夜は娘の誕生日です。皆様にも、ぜひ聞いていただきたい」
父は戸口の外の人垣へ振り返り、皆様にも聞こえるようにと両腕を広げた。姉は首の真珠に指を添えて、頬を染めた。
閣下は、片方の眉をほんの少しだけ上げた。
「では、ここで。リーケ嬢に、結婚を申し込みたい」
人垣の後ろのほうで、誰かの扇が床に落ちて、乾いた音を立てた。




