毎回、申し上げました
「リ……リーケ?」
母の声が、途中で裏返った。
「マルグリートでは、ございませんの?」
「マルグリート嬢とは、今夜より前には、王宮で一度挨拶をしただけだ」
閣下は、母のほうへ顔だけ向けて答えた。言い方に棘はなかった。訊かれたことに、そのまま答えただけだった。
姉が、人垣の前へ一歩出た。真珠に添えていた指が、首元で固まっている。
「でも、閣下は毎週のように当家に……私に会いに」
「伯爵家には、木曜に十二回伺った」
閣下の声の調子は、この部屋でレモンを頼むときと、まるで変わらなかった。
「十二回とも、伯爵もご夫人もマルグリート嬢もご不在で、リーケ嬢が迎えてくれた」
父の笑顔が、両腕を広げたままの形で止まった。母は、何か言おうとして開いた口を、閉じることも忘れていた。
戸口の向こうで、小さな「まあ」が一つこぼれた。
それにつられたように、扇がひとつ、ゆっくりと開いた。開いたのは、ファン・ホーフ子爵夫人の扇だった。
「そういえば、うちの茶会の木曜なら、マルグリート様はうちにいらしていたわね。閣下が先週いらしたのよ、とあの日も嬉しそうにお話しになっていたけれど」
「王宮の春の園遊会の日も、木曜でしたな」
若い殿方が、子爵夫人の後ろから首を伸ばした。
「伯爵ご一家が、閣下はどちらにと、ずいぶん探しておられた」
「王女殿下の茶会の木曜も、マルグリート様がご自分で――」
今度は若い令嬢の声だったが、言い終わらないうちに、母親らしい方がその袖を引いた。令嬢は慌てて口を押さえた。
誰も、意地の悪い顔はしていなかった。自分の家の催しの日を、思い出したとおりに口にしているだけだった。
人垣のいちばん奥から、床を突く杖の音が近づいてきた。人が左右に分かれて、向かいのドルン男爵が顔を出した。
「閣下の馬車でしたら、伯爵家の馬車が角を曲がると、決まって反対の角から入ってきましたな。うちの犬がすっかり覚えてしまって、木曜の二時になると門の前で尻尾を振っております」
(男爵様の犬は、木曜の二時を覚えていたのね)
最初に噴き出したのが誰だったのかは、分からない。くすくすという笑いが、小客間の戸口から広間の奥まで、さざ波のように伝わっていった。
姉の頬から、少しずつ赤みが引いていった。
「嘘よ」
姉の声は細く、震えていた。
「リーケが、留守番をいいことに、閣下を引き留めていたんでしょう」
「引き留められたことは、一度もない」
閣下は姉のほうを見なかった。
「四時の鐘が鳴ると、毎回、もうお帰りの時刻です、と言われた。そこの家政婦長が証人だ」
部屋じゅうの目が、隅のヘッダに集まった。ヘッダは繕い物から顔を上げず、針を持った手のまま、一度だけ深く頷いた。
母が、私の腕をつかんだ。指が食い込むほどの強さだった。
「リーケ。なぜ言わなかったの!」
「毎回、申し上げました」
母の目から目をそらさずに、私は答えた。
「おかえりなさいませ、今日は公爵閣下がいらっしゃいました、と。十二回とも。お母様は毎回、マルグリートのいない日に限って、とおっしゃいました。先週は、夢でも見たのね、と」
言いながら、自分でも数えていた。おかえりなさいませ。今日は公爵閣下がいらっしゃいました。十二回、同じ玄関で、同じ言葉を。
私の腕をつかんでいた母の指が、一本ずつほどけていった。
父の咳払いが、笑い声を押しのけた。父の顔は赤いままだったが、口の端には、王宮で誰にでも向けるあの愛想が、もう戻ってきていた。
「いや、これは、まことに光栄なお話で。喜んでお受けいたします。リーケも、私どもの自慢の娘でして――」
戸口の外で、わざとらしい咳がひとつ、父の言葉に重なった。
「伯爵のご同意は、ありがたく頂く」
閣下は父に浅く頭を下げ、それから体ごと私に向き直った。
「返事は、リーケ嬢から聞きたい」
返事なら、先週の木曜に、もう申し上げてある。それでも、同じ返事を二度申し上げるのは、ちっとも嫌ではなかった。
「はい。お受けいたします」
閣下が身をかがめた。持ち上げられた私の手の、指の背に、ほんの軽く唇が触れた。隅の椅子から、ヘッダの鼻をすする音が聞こえた。
顔を上げた閣下の耳が、少し赤かった。夜会の灯りのせいではないと思う。
「で、では、婚約の披露は」
父の声が、急いで割り込んできた。
「マルグリートの縁談がまとまってからということで、いかがでしょう。こういうことは、やはり姉が先と申しますか――」
「伯爵」
閣下は、私の手を握ったまま父を見た。
「順番なら、私はこの家の木曜に十二回並んだ。もう十分に待ったと思う」
戸口の人垣から、遠慮のない笑い声がどっと上がった。今度は、こらえようとする人もいなかった。
笑い声の向こうで、薔薇色の裾が広間の奥へ遠ざかっていくのが見えた。姉の姿は、いつの間にか戸口から消えていた。
閣下はようやく、窓際のいつもの椅子に座った。ネルの運んできたお茶は、すっかり冷めていた。
「淹れ直させましょうか」
「いい。今夜は、四時の鐘が鳴らない」




