お前は留守番だ
八度目の木曜、閣下は四時の鐘が鳴る前に、カップを置いた。
「伯爵にお目にかかって、話したいことがある。次の木曜、お父上に家にいていただけるか、聞いてもらえないか」
先週おっしゃった「伯爵にも用がある」は、これのことだったらしい。
「かしこまりました。今夜、父に申し上げます」
「頼む」
閣下はそれだけ言って、いつもと同じ一行の名刺を置いていかれた。
◇
その晩、夕食のあとで、私は書斎の扉を叩いた。
父は机に向かって、何かの書き付けに目を通していた。机の端には、閣下の名刺が八枚、相変わらずきちんと並んでいる。
「お父様。公爵閣下が、お父様にお話があるそうです。次の木曜、家にいていただけますか」
「閣下が、私に?」
父はペンを置いて、顔を上げた。燭台の灯りの中で、その顔がみるみる明るくなっていった。
「いよいよだな」
「お父様、閣下のお話というのは――」
「よいよい、分かっておる。次の木曜は家にいよう。アデーレにも知らせなければ」
父はもう立ち上がって、居間のほうへ歩き出していた。私の言いかけたことは、書斎の扉と一緒に閉まってしまった。
(閣下が何のお話をなさるのか、私も知らないのだけれど)
ただ、父が何を思っているのかだけは分かった。居間から、母の高い声と、姉の小さな悲鳴のような笑い声が聞こえてきたからだ。
その週、家の中は、姉の縁談の支度で落ち着かなかった。
母は姉の衣装部屋からドレスを何着も出させては戻させ、結局、閣下の目の色に合うという灰青の一着に決めた。木曜の午後は家族そろって家にいて、閣下がいらしたら、まず父が書斎でお話を伺い、それから姉を呼ぶ。その段取りを、母は夕食のたびに繰り返した。
「リーケ、あなたはその日、二階にいなさいね」
「はい、お母様」
(家にいるのに、留守番ではない木曜。初めてかもしれない)
台所では、ミーナが胡桃の袋をいつもより一つ多く棚から下ろしていた。
「旦那様も奥様もいらっしゃる木曜なんて、何年ぶりでしょうね」
ミーナの声は、ちっとも弾んでいなかった。いつもの木曜とどこを変えればいいのか、ミーナにも見当がつかないようだった。
父の約束は、木曜の朝食の席までは守られていた。
◇
その朝、家族は珍しく早くから食堂にそろっていた。姉は灰青のドレスにもう着替えていて、袖を汚さないよう、パンを指先でちぎっていた。父は、閣下に何と申し上げるかを口の中で練習しているらしく、ときどき咳払いをした。
「リーケ、お茶が済んだら二階へ上がっていなさい。閣下がお帰りになるまで、下りてこないのよ」
「はい、お母様」
朝食の途中に、王宮の紋の封書を持った使いが来た。
銀の盆の上の封書を開いた母が、椅子から半分立ち上がった。
「王女殿下が、今日の午後の茶会に、マルグリートを招いてくださるそうよ! 急なお招きだけれど、ぜひにって」
「王女殿下の茶会よ! お父様、付き添ってくださるわね」
姉が父の腕にすがった。
「しかし、今日は閣下が――」
「閣下には、また木曜に来ていただけばいいでしょう。毎週いらっしゃるんですもの」
母は封書を胸に当てた。
「焦らすのは、まだ効いているわ。王女殿下のお茶会に呼ばれる娘だと分かれば、閣下だって、なおさら」
それで、決まってしまった。
父は少しだけ私のほうを見た。困ったような顔だったけれど、閣下に悪いと思っている顔ではなかった。自分でした約束を自分で取り消す手間が、面倒だという顔だった。
「リーケ、閣下には、お前からよくお詫びしておけ。お前は留守番だ」
「……はい、お父様」
灰青のドレスは、王女殿下の茶会に着ていくことになった。
◇
呼び鈴は、いつもと同じころに鳴った。
小客間へ入っていらした閣下は、部屋の中を一度見回した。窓際の椅子、ヘッダのいる隅、開いた扉。それから、私の顔。
「伯爵は」
「王女殿下の茶会に、姉の付き添いで」
閣下はしばらく何も言わなかった。
それから、いつもの椅子に座った。ネルが、いつもどおりレモンを添えたお茶を運んできた。卓の上には、今日のために多めに焼いた胡桃の焼き菓子が、山のように盛られていた。
「父から、閣下によくお詫びするよう申しつかっております」
「君が詫びることではない」
閣下はカップを取り、レモンを沈めて、私を見た。
「君は、今日も家にいた」
私は膝の上で手を組んだ。お詫びの言葉は、もう一つも出てこなかった。
閣下は焼き菓子を一つ取って、山の端を少し崩した。
「次は、伯爵が必ず家にいる日に来る」
◇
その晩、王女殿下の茶会から戻った父は、玄関の広間で外套を脱ぎながら、一度だけ私に聞いた。
「閣下は、お怒りではなかったろうな」
「次は、お父様が必ず家にいらっしゃる日に来る、とおっしゃいました」
「うむ。では来週だな」
父は満足そうに頷いて、王女殿下が姉の竪琴をどれほどお褒めになったかを話しながら、居間へ入っていった。
(来週の木曜は、たしか、夜会の支度で仕立て屋だったはずだけれど)
父の予定を、父がいちばん知らなかった。




