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「あなたは留守番ね、お姉様の邪魔だから」と母が言うので、留守番中に公爵閣下を十二回おもてなししました【連載版】  作者: みれいぬ


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海の音

 閣下が隠しから取り出したのは、柔らかい布にくるんだ、手のひらに収まるほどの包みだった。


 卓の上で布を開くと、白い巻貝が一つ出てきた。螺旋がきれいに巻いていて、口のところだけが、朝焼けのような淡い桃色をしている。


「領地の浜で拾った。耳に当ててみるといい」


 言われたとおりに、そっと耳に当てた。


 少しのあいだは、しんとしていた。やがて、ずっと遠くで、何かが寄せては引いていく音がした。寄せて、引いて、また寄せる。小客間の暖炉の音とも、通りを行く馬車の音とも違った。


「……これが、海の音ですか」


「学者は、耳の中の音だと言う。だが、領地の者はみな、海の音だと言う」


「閣下は、どちらだと思われますか」


「領地の者に賛成だ」


 私はしばらく、巻貝を耳に当てたままでいた。閣下はそのあいだ何も言わずに、二杯目のお茶を飲んでいた。部屋の隅のヘッダの針の音が、ときどき途切れた。


 四時の鐘が鳴って、閣下は立ち上がった。巻貝をお返ししようとすると、閣下は首を振った。


「それは、君に持ってきた」


 それから、帽子を受け取る前に、戸口で振り向いた。


「どこへ行きたい」


 すぐには答えられなかった。


 どこへ行きたいかを、人に聞かれたことがなかった。聞かれるのはいつも、家族はどこへ行ったのか、いつ戻るのか、だった。


「海を、見てみたいです」


 言ってから、理由も申し上げたほうがいい気がした。


「小さいころ、家族が海辺で夏を過ごしたことがございます。私は、はしかで寝ておりました。帰ってきた姉が、波の話をしてくれましたけれど、少しも分かりませんでした。波というのが、どんな音を立てるのか」


 閣下は帽子を手にしたまま、少しのあいだ口を開かなかった。


「その夏、君は一人で留守番をしていたのか」


「ベルトラムとヘッダがおりました。それに、熱が下がってからは、図書室がございましたから」


 閣下は、部屋の隅のヘッダのほうを一度見た。ヘッダは繕い物から顔を上げなかった。


「覚えておく」


 閣下はそう言って、いつもどおり名刺を一枚置いて帰っていった。


 巻貝は、私の部屋の窓辺に置いた。夜、寝台に入る前に、一度だけ耳に当てた。やはり海の音がした。


◇


 そのころ姉は、夜会や茶会で、こんな話をして回っていたらしい。


「ファルケンラート公爵閣下が、毎週のように当家にいらっしゃるの。私が留守がちで、お気の毒なのだけれど」


 私がそれを知ったのは、夕食の席で母が嬉しそうに繰り返したからだ。


「皆さん、それはもう驚いていらしたわ。閣下がどの家にも足を向けないのは、王都じゅうが知っているもの。どなたも、マルグリートが羨ましいって」


「侯爵家のお嬢様なんて、扇を取り落としそうになっていたのよ」


 姉はスープの匙を置いて、くすりと笑った。


「閣下とどんなお話をなさるの、と聞かれたわ。だから、まだ内緒、と言っておいたの」


(内緒も何も、お姉様は閣下とお話ししたことがないのよね)


 父は満足そうに頷きながら、肉を切っていた。私はスープを飲みながら黙っていた。


(毎週いらっしゃるのは本当で、お姉様が留守がちなのも本当なのよね)


* * *


 七度目の木曜の閣下は、来たときからずっと、窓の外を眺めていた。


 庭の垣根の向こうの通りを、どこかの家の馬車が続けざまに通り過ぎていく。今日は川沿いの公園で乗馬の会があって、家族も、姉の新しい乗馬服を見せに出かけていた。


「君は、家族が出かけていくのを、寂しいと思わないのか」


 閣下は通りを見たまま聞いた。


 どう答えようか迷って、結局、本当のことを言うことにした。


「小さいころは、寂しかったです。玄関で見送ったあと、馬車の音が聞こえなくなるまで、扉の前に立っていました」


「今は」


「今は、留守番の日のほうが好きです。家の中が静かで、図書室の椅子を独り占めできて、いらしたお客様は、みんな私とお話ししてくださいますから」


「そうか」


「閣下は、どうして毎週いらっしゃるのですか」


 聞いてから、少し不躾だったかしらと思った。けれど閣下は、気を悪くした様子もなかった。


「この部屋では、誰も私を追いかけてこない」


 閣下の目が、通りから私のほうへ戻ってきた。


「君は、私が来ても来なくても、同じように留守番をしているだろう。だから来たくなる」


 それは、たぶん本当だった。閣下が来なくても、私は木曜にはこの部屋にいる。誰かが来れば迎えるし、誰も来なければ本を読む。


 でも、と思った。


「……来なくなったら、木曜の二時に、少しだけ呼び鈴を待つと思います」


 口に出したとたん、耳まで熱くなった。


 部屋の隅で、ヘッダの歯が、繕い物の糸をぷつりと切った。いつもより大きな音だった。


 閣下からは、返事がなかった。空のカップを両手で包むように持って、ゆっくりと回していた。四時の鐘が鳴るまで、ずっとそうしていた。


 鐘が鳴って、閣下は立ち上がった。帽子を受け取り、名刺を盆に置いてから、戸口で一度だけ振り返った。


「来週は、伯爵にも用がある」

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