いつでもお越しください、と伯爵は言った【コルネリス視点】
いつでもお越しください、と伯爵は言った。
王宮の控えの間で、私に向かって、はっきりそう言った。だから私は、行くことにした。
社交界の名簿を開くと、ローゼンダール伯爵家の欄には「木曜の午後」とあった。いつでも、と言われても、相手の家の都合を無視してよいわけではない。在宅日に行けば、作法の上でも申し分ない。
「旦那様」
出がけに外套を差し出しながら、従者のヤンが言った。私が子どものころから仕えている男で、私の言いたいことを、たいてい私より先に察する。
「伯爵の『いつでも』は、たぶん『いつでも』ではございません」
「伯爵は、いつでも、と言った」
「はい。旦那様にも、宰相府の書記官にも、通りがかりの近衛にもおっしゃっていました」
「では、皆が行けばいい」
ヤンは何か言いかけて、外套の襟を直すほうを選んだ。
私は夜会に出ない。出れば、端から紹介される。娘、姪、妹、遠縁の令嬢。挨拶の言葉を交わすたびに、相手の母親の目が、私の顔と財布と家系図を順に測っていく。一晩で紹介された人数を、最後まで数えきったことは一度もない。いつからか数えるのをやめ、それから行くのをやめた。
在宅日の訪問なら、紹介する側の人間は一人か二人で済む。伯爵と、せいぜい夫人。それなら耐えられると思った。
伯爵は、いなかった。
夫人も、上の令嬢も、いなかった。小客間で私を迎えたのは、胡桃色の髪を首の後ろでまとめた、膝に古い旅行記を載せていた娘で、自分のことを「留守番」だと言った。
父は、いつでも、と申しますが、いつも、おりません。
あの一言を、私は帰りの馬車の中でも何度か思い出した。社交辞令の中身のなさを、当の家の娘が、少しも皮肉のつもりなく言い当てたのだ。
彼女は誰も紹介しなかった。紹介できる人がいなかったからだが、それでも、あの部屋で一杯目のお茶を飲み終えたとき、私は自分の肩がいつもより下がっていることに気づいた。家族の行き先を順番まで答える娘は、私を誰かに引き合わせるつもりがまるでなかった。私がそこにいることを、来客の一人として、そのまま受け取っていた。
四時の鐘が鳴ったときは、もっと驚いた。
お帰りの時刻でございます、と言われたのだ。どの家でも、私は引き留められるほうだった。帰ってよいと告げられたことは、覚えている限り一度もない。それが、ひどく楽だった。
「三百十二冊だそうだ」
帰りの馬車で、私は向かいのヤンに言った。
「何がでございますか」
「あの家の図書室を、端から読んでいる。留守番のあいだに」
「……左様で」
ヤンは、続きを促さなかった。私も黙っていた。何か言えば、自分が何を考えているかまで口に出してしまいそうだった。
屋敷に戻ると、私は図書室へ行った。
彼女の膝の上の上巻は、栞が最後の数頁に挟まっていた。端から読む人が最後まで来ていて、隣に下巻を置いていない。あの家には、続きがないのだろう。
『南海航路記』は、父の棚にあった。父はこの航路の本が好きだった。航路の終わりの岬と灯台は、うちの領地の海にある。下巻を抜き出すと、父がよく開いていた頁のところで、背が癖のように少し開いた。
◇
二度目の木曜、下巻を渡すと、彼女は表紙に指を置いて、どうしてご存じなのですか、と言った。私は見たとおりのことを答えただけだ。それなのに、彼女は少しのあいだ黙って、私の顔を見ていた。
読み終えたら返してくれればいい、と言った。父に預けると言われる前に、木曜に、と付け足した。
自分の口から何が出たのかを思い返したのは、帰りの馬車に揺られてからだった。
「伯爵宛ての名刺を、また置いていかれましたね」
ヤンが言った。
「伯爵に会いに来ている」
「左様で」
ヤンは窓の外を見ていた。
◇
三度目の木曜、家族は仕立て屋だと、彼女は言った。
彼女は下巻を卓に置き、私のほうへ両手で押し出した。
「お返しいたします。読み終えました」
「早いな」
「借りた本ですので」
それから彼女は、少しためらうように指先を表紙に残したまま言った。
「最後の章に、南の岬の灯台が出てまいります。夜の船は、その灯りを見て、帰ってきたと思うのだと。あの灯台は、今もございますか」
「ある」
私は答えた。
「夏の館の窓から見える。夜になると、灯りが沖のほうへ回る」
彼女の目が、少し大きくなった。
「では、本に書いてあることは、本当にあるのですね」
その言い方で分かった。彼女は、この家の窓から見えるものと、本に書いてあることと、木曜に来る客の話とで、外の世界を知ってきたのだ。灯台は、彼女にとって、本の中の灯台でしかなかった。
「来週も、家族は出かけるのか」
「はい。演奏会でございます。雨でも行くと、母が申しておりました」
「では、来週も留守番か」
「はい」
「では、来週も来る」
彼女は一度瞬きをして、それから、膝を折るのではなく、小さく頷いた。
帰りの馬車で、ヤンが手帳を閉じた。
「伯爵宛ての名刺は、今日で三枚目でございます」
「……伯爵にも、いずれ会う」
「左様で」
四度目の木曜は、朝から雨だった。
ヤンが窓の外を見て「今日はお控えになっては」と言った。私は黙って、外套を取った。




