続きの巻
次の木曜、家族はファン・ホーフ子爵夫人の茶会へ出かけた。
玄関の広間で、姉は鏡の前に立ったまま、母に襟元のレースを直させていた。子爵夫人のお宅には、今年仕立てたばかりの小ぶりな竪琴があるそうで、姉はそれを弾かせてもらうつもりらしい。
「リーケ、もし閣下がいらしたら」
母は手袋の指先を引っ張りながら言った。
「マルグリートは子爵夫人のところだと、お伝えしておいてちょうだい。ちゃんと、行き先までね」
「はい、お母様。いってらっしゃいませ」
(行き先をお伝えするのは、いつものことなのだけれど)
馬車が出てしまうと、私は小客間の窓を少し開けた。風はまだ冷たいけれど、庭の水仙の匂いが入ってくる。窓際の椅子の前の卓には、レモンの小皿がもう置いてあった。ネルが、言われる前に用意しておいたらしい。
呼び鈴は、先週と同じころに鳴った。
小客間へ入っていらした閣下は、挨拶のあと、脇に抱えていた包みを卓に置いた。布を解くと、革の背の、角の少し擦れた本が出てきた。
『南海航路記』下巻、と金の文字があった。
「上巻の終わりで、船が港を出たところだったろう」
「どうしてご存じなのですか」
「先週の上巻は、栞が最後の数頁のところに挟まっていた」
私は表紙に指を置いた。先週、閣下が上巻を手にしていらしたのは、ほんの少しのあいだだったはずだ。
「この家の図書室には、下巻がございませんでした。棚の端から端まで探したのですけれど」
「そうだと思った」
「どうして」
「端から読んでいる人が、最後の数頁まで来ていて、膝の上に一冊しか置いていなかった。下巻があれば、隣に置いておくだろう」
閣下はそう答えて、カップにレモンを沈めた。さも当然だという顔だった。
(見ていらしたのは、栞だけではなかったのね)
「これは私の家の本だ。読み終えたら、返してくれればいい」
「では、父にお預けして――」
「木曜に」
閣下は、それだけ言った。
木曜に返す、ということは、閣下はまた木曜にいらっしゃるということだ。私がこの本を借りているあいだは、少なくとも。
「……かしこまりました。木曜に、お返しいたします」
その日の閣下は、二杯目のお茶を飲みながら、下巻の最初に出てくる港がどんな町かを話してくださった。私は膝の上の本を一度も開かずに、それを聞いていた。開けば、先に読みたくなってしまいそうだったから。
四時の鐘が鳴ると、閣下は今日も、私が申し上げる前に半分腰を浮かせていた。先週の一度で、この小客間の決まりを覚えてしまわれたらしい。玄関の広間で、ベルトラムの盆に名刺が一枚置かれる。隅の一行は、先週と同じだった。
伯爵に。また伺う。
◇
その晩、私は居間で家族に申し上げた。
「今日も、公爵閣下がいらっしゃいました。お姉様は子爵夫人のところだと、お伝えしてあります」
「二週続けて!」
母は姉の手を両手で取った。姉の頬が、暖炉の火のせいだけではなく赤くなった。
「やっぱりよ、マルグリート。閣下はあなたに会いにいらしているの」
「でも、お母様。また会えなかったわ」
「それでいいのよ」
母は姉の手を握ったまま、声を落とした。秘密の作戦を打ち明けるときの声だった。
「閣下は、追いかけられるのがお嫌いなのよ。こちらが家で待ち構えていたら、ほかの家と同じになってしまうわ。会えない木曜が続くほど、殿方は会いたくなるものなの」
「お母様、閣下は木曜に、この家へ――」
「だから、外でお会いするのよ。偶然を装って。ねえ、あなた」
「うむ。それがいい」
父は新聞から目を上げずに頷いた。机の端には、閣下の名刺が二枚、きちんと並べて置いてあった。
私の言いかけたことは、そこで母に引き取られて、どこかへ行ってしまった。いつものことなので、私はもう口を閉じた。
次の朝、母は居間の机に姉の予定表を広げ、羽根ペンで印を付け始めた。閣下が顔を出しそうな催し。閣下と同じ南のほうに領地を持つ家の茶会。南の港の話が出るという晩餐。母の印は、迷いなく木曜の欄にも付いていった。
(閣下は、木曜にうちへいらっしゃるのだけれど)
そう思ったけれど、予定表は、もう私の手の届かないところで埋まっていった。
私はその晩から、下巻を毎晩少しずつ読んだ。閣下の話してくださった港が、本の中でも本当にその形をしていた。
航路の最後の章には、南の岬の灯台の話があった。夜の海を行く船は、その灯りを見て、ようやく帰ってきたと思うのだそうだ。書いた人は、ずっと昔に亡くなっている。灯台がまだそこにあるのかどうか、本には書いていなかった。
(閣下なら、ご存じかしら)
借りた本は、返す日までに読み終えなければいけない。返すときに聞きたいことが、一つできた。
三度目の木曜、家族は仕立て屋へ、春の園遊会のドレスの仮縫いに出かけた。
呼び鈴は、いつもの時刻に鳴った。




