お茶は、おかわりになった
お茶を運んできたのは、女中のネルだった。まだ見習いの抜けきらない手つきで盆を置き、閣下のお顔を一度見て、それからは盆しか見なくなった。
「お砂糖は、いかがなさいますか」
「いらない。レモンがあれば」
ネルが小皿のレモンを一切れ添えると、閣下はそれをカップに沈めて、ミーナの焼き菓子を一つ取った。一口で半分ほどがなくなった。残りもすぐになくなり、閣下の手は、何も言わずに二つ目へ伸びた。
(お気に召したみたい)
ミーナに伝えたら、きっと次から一つ多めに焼くだろう。
「在宅日に伯爵がいないのは、珍しいのではないか」
「当家では、珍しくございません。母は、私がいるから在宅日は守れている、と申します」
「君は、演奏会へは」
「留守番です。この家にも、誰かいなくてはなりませんから」
閣下はカップを口へ運びかけた手を止め、湯気の向こうからしばらく私を見ていた。
「どこの家を訪ねても、まず誰かを紹介される。娘でも、姪でも、妹でも。この家では、誰にも紹介されないな」
「私しかおりませんので」
閣下の肩が、また小さく揺れた。
「木曜には、ほかにも客が来るのか」
「はい。向かいのドルン男爵様が、犬のお散歩の帰りにお寄りになります。それから、地方から王都へ出ていらした方が、名簿をご覧になって、作法どおりに木曜に。たいていの方は、父ではなく私とお茶を一杯召し上がって、お帰りになります」
「それで、家族の行き先にも詳しいのか」
「皆様、まずそれをお聞きになりますので」
それから閣下の目は、私の膝の上の本へ移った。
「それは」
「旅行記でございます」
「見ても?」
お渡しすると、閣下は表紙を返し、頁の端から覗いている私の栞に目を留めた。栞は、もう残りわずかの頁に挟まっている。
「『南海航路記』か。ずいぶん古い本を読むのだな」
「図書室の本は、留守番のあいだに端から読んでおります。これで、三百十二冊目です」
「三百十二」
「留守番が長いもので」
閣下は顔をそむけた。窓の外の庭を眺めるふりをしていたけれど、肩が揺れているのは隠れていなかった。
お茶は、二杯目になった。
閣下は旅行記の航路をよくご存じだった。船が寄る港の名前を私が挙げると、そこの市場に並ぶ干した魚の話をしてくださった。南の海は、晴れた日には緑に近い色になるのだという。
「海を、ご覧になったことは」
「ございません」
私が答えると、閣下は「そうか」とだけ言って、カップに目を落とした。
四時の鐘が鳴った。
「閣下、お帰りの時刻でございます」
在宅日のお客様には、四時の鐘でお帰りいただく。父の決めたことではないけれど、木曜の小客間ではずっとそうしてきた。言われた方がたいてい名残惜しそうになさるのも、いつものことだ。
閣下は名残惜しそうな顔はなさらず、素直に立ち上がった。玄関の広間で手袋をはめ、ベルトラムの盆に名刺を一枚置く。隅に、角ばった小さな字の一行があった。
伯爵に。また伺う。
(お父様に、と書いていらっしゃる)
当たり前だ。閣下は父を訪ねていらしたのだから。
従者を連れて門を出ていく背中を、私は玄関から見送った。家族を送り出すときと同じ言葉でよかったのだろうかと、扉が閉まってから少しだけ考えた。
台所へお盆を返しに行くと、ミーナが粉だらけの手を前掛けで拭きながら振り向いた。
「お嬢様、公爵様はいかがでした」
「二つ召し上がったわ。黙って、二つ目に手を伸ばしていらした」
「まあ。では次から、一つ多めに焼いておきます」
「次があるかは、分からないわよ」
「ベルトラムさんが、名刺に『また伺う』とあったと言っていましたよ」
ミーナは、もう胡桃の袋を棚から下ろしていた。
◇
家族が帰ってきたのは、すっかり暗くなってからだった。
「おかえりなさいませ。今日、公爵閣下が、お父様を訪ねて――」
「公爵閣下が!?」
外套の留め具を外していた母の手が、ぴたりと止まった。
「まあ、マルグリートのいない日に限って!」
「うむ、先日王宮でお招きしたのだ。マルグリートに会いに来られたに違いない」
父は盆から名刺を取り上げ、隅の一行を読んで、満足そうに口ひげを撫でた。
姉は髪に挿していた花を一本ずつ抜きながら、横目で私を見た。
「留守番が、余計なことを言わなかったでしょうね」
閣下とどんなお話をしたのか、尋ねる人はいなかった。家族はそのまま居間へ入っていき、扉の向こうから、今日の拍手がどれほど長く続いたかを話す母の声が聞こえてきた。
私は外套を衣装部屋へ運び、それから図書室へ戻って、旅行記の残りを読んだ。
最後の頁で、船は港を出たところだった。続きは下巻にて、と奥付の手前に一行ある。
私は燭台を持って、旅行記の棚の前に立った。棚の端から端まで見ても、下巻はどこにもなかった。
この家の図書室では、三百十二冊目の話が、続きの巻のないまま途中で終わっていたらしい。
(続きは、この家の外にしかないのね)
そして私は、この家の外へ、ほとんど出たことがない。




