↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「あなたは留守番ね、お姉様の邪魔だから」と母が言うので、留守番中に公爵閣下を十二回おもてなししました【連載版】  作者: みれいぬ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/9

お茶は、おかわりになった

 お茶を運んできたのは、女中のネルだった。まだ見習いの抜けきらない手つきで盆を置き、閣下のお顔を一度見て、それからは盆しか見なくなった。


「お砂糖は、いかがなさいますか」


「いらない。レモンがあれば」


 ネルが小皿のレモンを一切れ添えると、閣下はそれをカップに沈めて、ミーナの焼き菓子を一つ取った。一口で半分ほどがなくなった。残りもすぐになくなり、閣下の手は、何も言わずに二つ目へ伸びた。


(お気に召したみたい)


 ミーナに伝えたら、きっと次から一つ多めに焼くだろう。


「在宅日に伯爵がいないのは、珍しいのではないか」


「当家では、珍しくございません。母は、私がいるから在宅日は守れている、と申します」


「君は、演奏会へは」


「留守番です。この家にも、誰かいなくてはなりませんから」


 閣下はカップを口へ運びかけた手を止め、湯気の向こうからしばらく私を見ていた。


「どこの家を訪ねても、まず誰かを紹介される。娘でも、姪でも、妹でも。この家では、誰にも紹介されないな」


「私しかおりませんので」


 閣下の肩が、また小さく揺れた。


「木曜には、ほかにも客が来るのか」


「はい。向かいのドルン男爵様が、犬のお散歩の帰りにお寄りになります。それから、地方から王都へ出ていらした方が、名簿をご覧になって、作法どおりに木曜に。たいていの方は、父ではなく私とお茶を一杯召し上がって、お帰りになります」


「それで、家族の行き先にも詳しいのか」


「皆様、まずそれをお聞きになりますので」


 それから閣下の目は、私の膝の上の本へ移った。


「それは」


「旅行記でございます」


「見ても?」


 お渡しすると、閣下は表紙を返し、頁の端から覗いている私の栞に目を留めた。栞は、もう残りわずかの頁に挟まっている。


「『南海航路記』か。ずいぶん古い本を読むのだな」


「図書室の本は、留守番のあいだに端から読んでおります。これで、三百十二冊目です」


「三百十二」


「留守番が長いもので」


 閣下は顔をそむけた。窓の外の庭を眺めるふりをしていたけれど、肩が揺れているのは隠れていなかった。


 お茶は、二杯目になった。


 閣下は旅行記の航路をよくご存じだった。船が寄る港の名前を私が挙げると、そこの市場に並ぶ干した魚の話をしてくださった。南の海は、晴れた日には緑に近い色になるのだという。


「海を、ご覧になったことは」


「ございません」


 私が答えると、閣下は「そうか」とだけ言って、カップに目を落とした。


 四時の鐘が鳴った。


「閣下、お帰りの時刻でございます」


 在宅日のお客様には、四時の鐘でお帰りいただく。父の決めたことではないけれど、木曜の小客間ではずっとそうしてきた。言われた方がたいてい名残惜しそうになさるのも、いつものことだ。


 閣下は名残惜しそうな顔はなさらず、素直に立ち上がった。玄関の広間で手袋をはめ、ベルトラムの盆に名刺を一枚置く。隅に、角ばった小さな字の一行があった。


 伯爵に。また伺う。


(お父様に、と書いていらっしゃる)


 当たり前だ。閣下は父を訪ねていらしたのだから。


 従者を連れて門を出ていく背中を、私は玄関から見送った。家族を送り出すときと同じ言葉でよかったのだろうかと、扉が閉まってから少しだけ考えた。


 台所へお盆を返しに行くと、ミーナが粉だらけの手を前掛けで拭きながら振り向いた。


「お嬢様、公爵様はいかがでした」


「二つ召し上がったわ。黙って、二つ目に手を伸ばしていらした」


「まあ。では次から、一つ多めに焼いておきます」


「次があるかは、分からないわよ」


「ベルトラムさんが、名刺に『また伺う』とあったと言っていましたよ」


 ミーナは、もう胡桃の袋を棚から下ろしていた。


◇


 家族が帰ってきたのは、すっかり暗くなってからだった。


「おかえりなさいませ。今日、公爵閣下が、お父様を訪ねて――」


「公爵閣下が!?」


 外套の留め具を外していた母の手が、ぴたりと止まった。


「まあ、マルグリートのいない日に限って!」


「うむ、先日王宮でお招きしたのだ。マルグリートに会いに来られたに違いない」


 父は盆から名刺を取り上げ、隅の一行を読んで、満足そうに口ひげを撫でた。


 姉は髪に挿していた花を一本ずつ抜きながら、横目で私を見た。


「留守番が、余計なことを言わなかったでしょうね」


 閣下とどんなお話をしたのか、尋ねる人はいなかった。家族はそのまま居間へ入っていき、扉の向こうから、今日の拍手がどれほど長く続いたかを話す母の声が聞こえてきた。


 私は外套を衣装部屋へ運び、それから図書室へ戻って、旅行記の残りを読んだ。


 最後の頁で、船は港を出たところだった。続きは下巻にて、と奥付の手前に一行ある。


 私は燭台を持って、旅行記の棚の前に立った。棚の端から端まで見ても、下巻はどこにもなかった。


 この家の図書室では、三百十二冊目の話が、続きの巻のないまま途中で終わっていたらしい。


(続きは、この家の外にしかないのね)


 そして私は、この家の外へ、ほとんど出たことがない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。