あなたは留守番ね
本作は、短編「『あなたは留守番ね、お姉様の邪魔だから』と母が言うので、留守番中に公爵閣下を十二回おもてなししました」の連載版です。第1〜15話は短編版をもとに加筆し、公爵閣下と家族の視点の回を足しています。第16話から短編の先へ進み、婚約したリーケが初めて「出かける側」になる、王都の秋のお話になります。
「あなたは留守番ね、お姉様の邪魔だから」
玄関の広間で、母は手袋の小さな真珠のボタンを一つずつ留めていた。私のほうへは、一度も顔を向けなかった。
階段の上から、薔薇色の裾が下りてくる。姉のマルグリートだ。そのあとから、竪琴の箱が従僕二人の手で運び下ろされてくる。今日の午後は王立音楽堂で、姉の演奏会がある。
「はい。いってらっしゃいませ」
私は膝を折った。この言葉なら、目をつぶっていても言える。
(今日も、この家の主は私ね)
出かける家族をこの広間で見送り、帰ってくれば「おかえりなさいませ」と出迎える。ローゼンダール伯爵家の次女である私の、いちばん長く続けている仕事だった。
姉の演奏会の客席に座ったことが、私には小さいころに一度だけある。曲の途中で、こらえきれずに咳を一つした。姉はその曲を頭から弾き直し、楽屋で「あの子がいると気が散るの」と泣いた。演奏会の客席に私の椅子が用意されたのは、それが最後だ。園遊会でも夜会でも、母の言い分は同じだった。マルグリートの隣にあなたがいると、話がそちらへ逸れるでしょう。
幼い夏、私がはしかで寝込んでいるあいだに、家族は海辺へ発ち、ひと夏を向こうで過ごした。母の手紙は姉の日焼けを案じる話で便箋が埋まっていて、私の熱については、追伸にひと言添えてあるだけだった。
熱の下がった朝、枕元に来た執事のベルトラムが、白い手袋の手を膝に置いて言った。
「お嬢様。留守番は、家をお預かりすることでございます。今日のこの家の主は、お嬢様です」
あの朝から、私には決まりが一つある。
留守番を頼まれたら、留守のあいだは私がこの家の者。来た人は、私がお迎えする。
「リーケ、今日は木曜よ」
馬車の踏み段に片足を掛けたところで、母が振り返った。
「お客様がいらしたら、お相手をしておいてちょうだい。あなたがいるから、うちの在宅日は守れているのよ」
「はい、お母様」
王都の貴族の家は、週に一度、在宅日を決めている。その日の午後は家の者が家にいて、前触れなしに訪ねてきた客を迎える。社交界の名簿にも、どの家が何曜日かが載っていて、ローゼンダール伯爵家の欄には木曜の午後とある。
けれど王都では、茶会も演奏会も、なぜか木曜の午後に集まりやすい。姉に招きが来れば、家族はそろってそちらへ出かける。だから、うちの木曜の小客間に座っているのは、もう何年も前から私一人だ。家族がいないと承知で来てくださる方もいれば、知らずに来て、私を見て目を丸くなさる方もいる。どちらの方にも、私はお茶を出してきた。
馬車の音が門の外へ遠ざかると、屋敷はしんと広くなった。
私は図書室へ行き、窓際のいつもの椅子で、読みかけの旅行記を膝に開いた。廊下の奥から、胡桃を炒ったような甘い匂いが流れてくる。料理番のミーナは、私が留守番の日には必ずこの焼き菓子を焼いてくれる。
留守番は、嫌いではない。
* * *
玄関の呼び鈴が響いたのは、二時の鐘から少したったころだ。
ほどなくベルトラムが、名刺を一枚載せた銀の盆を手に、図書室へ姿を見せた。
「ファルケンラート公爵閣下がお見えです。先日王宮で、旦那様に『いつでもお越しください』と言われたので、在宅日に伺った、と」
私は本に指を挟んだまま、その名前を胸の内で繰り返した。
ファルケンラート公爵。名前だけなら、毎日のように聞いている。王陛下の甥にあたる方で、領地は南の海に面しており、夜会に出たという話はめったに耳にしない。今年の姉の縁談で、母がいちばん上に名前を書いている方でもあった。
(お父様の「いつでも」を、本気にした方がいたのね)
父の「いつでも」は、王宮の廊下で誰にでも配る挨拶のようなものだ。言われたとおりに来た人を、私はこれまで見たことがない。
「小客間へお通しして。ヘッダにも来てもらってね。それから、ミーナにお茶を」
「かしこまりました」
小客間に入ってきたのは、戸口で少し頭を下げなければならないほど背の高い方だった。砂色の髪を短く刈り、墨色の上着には飾り一つない。灰色の目がまず部屋の隅々を確かめるように動き、それから私の上で止まった。
「ローゼンダール伯爵にお目にかかりたい」
「申し訳ございません。父は留守にしております。次女のリーケでございます。留守番をしております」
「留守か」
「はい。父は、いつでも、と申しますが、いつも、おりません」
閣下は灰色の目を一度しばたたき、そのあとで、声を出さずに肩だけを揺らして笑った。
呼ばれてきた家政婦長のヘッダが、繕い物を膝に部屋の隅へ腰を下ろした。扉は開けておき、閣下の従者は玄関の広間に残る。結婚前の娘が殿方を通すときの、決まりの形だ。
「では、ローゼンダール嬢。待たせてもらってもいいか」
「お待ちになるのでしたら、夜になってしまいます。姉の演奏会が終わりましたら、楽屋で花束をお受けして、そのままファン・ホーフ子爵家の晩餐へ回りますので」
「……詳しいな」
「留守番ですので」
家族がどこにいて、いつ戻るのか。誰に聞かれても答えられるようにしておくのが、留守番の務めだ。
窓際には、向かい合わせに椅子が二つ置いてある。片方は私の椅子だ。もう片方を勧めると、閣下は少しのあいだ思案するように黙ってから、そこに座った。
「では、お茶を一杯だけ」
(この小客間で、一杯だけでお帰りになった方は、まだいらっしゃらないのだけれど)
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