殿下、お帰りの時刻でございます
冬の最初の木曜、公爵家の表の大きな門扉は、朝から開け放してあった。
王家の馬車は、脇の小さな門をくぐれない。マウリッツは前の晩のうちに蝶番に油を差し、門番も増やした。それでも、門の前の石畳を何度も見に行っていた。
二時の鐘が鳴ると、いつものように呼び鈴が鳴った。
男爵様がボッケを連れて、子爵夫人が柱の陰の椅子に、南の生まれの若い夫人がご主人の妹御と一緒に。いつもの顔ぶれが、いつもの椅子に落ち着いていく。皆様、今日が何の日かご存じのはずなのに、誰も帰り支度の話はしなかった。
「今日は、長居をしても叱られませんかな」
男爵様が、ボッケの首輪を撫でながら笑った。
「四時の鐘までは、いつもどおりでございます」
「それは、困りましたな」
◇
王家の紋の馬車が門を入ってきたのは、半を過ぎたころだった。
玄関の広間に、近衛の護衛が先に入ってきて、扉の両脇に立った。片方は、ヨーリス様だった。礼装の肩章をつけて、まっすぐ前を見ている。私と目が合うと、ほんの少しだけ顎を引いた。今日は、窓際の明るいお席には座れないらしい。
続いて、ハウトマン夫人。それから、淡い金の毛皮の襟巻きをした若い方が、外の冷たい空気と一緒に入ってきた。
閣下と同じ、灰色の目をしていた。
「ようこそおいでくださいました、殿下」
私は、膝を折った。男爵様にも子爵夫人にも申し上げるのと、同じ言葉だった。
王女殿下は、私の顔を、遠慮のない目でじっと見た。
「あなたが、お噂の留守番の方ね」
「はい。リーケ・ローゼンダールでございます」
「思っていたより、小さいのね。もっと怖い人かと思っていたわ。王女を四時に追い返す人なんでしょう?」
ハウトマン夫人が、殿下の後ろで、目を伏せた。段取りの話は、全部伝わっているらしかった。
◇
客間に入ると、ハウトマン夫人が、先にいらしたお客様方へ、ちらりと目を向けた。お引き取りを、という目だった。
誰も立たなかった。子爵夫人は扇を使い、男爵様はボッケの耳の後ろを掻いていた。
「殿下。お椅子は、どれがお好みでございましょう」
殿下は、目を瞬いた。
「わたくしに、聞くの?」
「はい。初めてのお客様には、伺うことにしております」
「わたくしに椅子を聞いた人は、いないわ。どこへ行っても、皆、いちばん良い椅子を空けて待っているの」
殿下は客間をぐるりと見回して、迷わず窓際へ歩いていった。窓際の端の、背もたれの低い椅子。その椅子に手をかけたところで、隣に立っていた閣下が言った。
「そこは、私の椅子だ」
客間のあちこちで、誰かが噴き出した。
殿下は、閣下を見上げた。
「あなた、王女に椅子を譲らないの」
「木曜は、その椅子に座ることにしている」
殿下は声を立てて笑い、隣の、日の当たる椅子に腰を下ろした。
◇
お茶の好みも、殿下はご存じなかった。
「いつも、出されたものを飲むから。考えたことがないわ」
それで、少しずつ試していただくことにした。マウリッツが、小さなカップを三つ並べた。隅の椅子で繕い物をしていたヘッダが、針を止めてそれを眺めていた。一つにはレモンを。一つにはミルクを、先に。一つには蜂蜜を、ほんの少し。
殿下は、一つずつ口をつけた。レモンでは眉を上げ、ミルクでは首をかしげ、蜂蜜で、もう一口飲んだ。
「これがいいわ」
「蜂蜜を少し、でございますね」
覚えた、と思った。次からは、聞かずにお出しできる。
そのとき、殿下の靴の先に、何か柔らかいものが乗った。ボッケだった。暖炉の前の敷物から、いつの間にか出てきて、殿下の靴に顎を乗せていた。
ハウトマン夫人が、頬をこわばらせた。
殿下は、焼き菓子の皿から端のかけらを一つつまんで、ボッケの鼻先に差し出した。ボッケは礼儀正しく受け取って、また顎を靴に戻した。
「殿下、それは手前の役目でしてな」
男爵様が、真顔でおっしゃった。
◇
殿下は、それから一人ずつ、お客様方に話しかけた。この家の木曜に来るのは、なぜか、と。
「わたくしは、窓から遠い椅子が空いているからですわ。よその家では、黙っていると日の当たる席に座らされますの」
「わたくしは、南の浜の道中のお話を、最初に聞いていただけるからです」
「手前は、ボッケが門の前で動かなくなるからでしてな」
皆様、ご自分の木曜の話しかなさらなかった。私のことを褒める方は、一人もいなかった。それがかえって、私には嬉しかった。
殿下は、話を聞きながら、ずっと私を見ていた。カップを持ったまま、私がどのお客様のおかわりを先に注ぐのか、どなたの皿に焼き菓子を足すのかを、目で追っていた。
◇
四時の鐘が鳴った。
私は立ち上がって、客間の皆様に向かって言った。
「皆様、お帰りの時刻でございます」
それから、殿下のほうを向いた。
「殿下も」
ハウトマン夫人が、はっきりと息をのんだ。客間が静まり返った。男爵様の手が、ボッケの背中の上で止まった。
殿下は、目を丸くしたまま、私の顔を見つめていた。
それから、笑った。扇も使わず、口元も隠さず、声を立てて。
「わたくしに、帰りなさいと言った人は、あなたが初めてよ」
「木曜のお客様には、皆様にそう申し上げております」
「この家の木曜の決まりだ」
閣下が、窓際の椅子から付け加えた。
「私も、毎回言われた」
殿下は、カップの残りを一息に空けて、腰を上げた。殿下が立つと、お客様方も笑いながら立ち上がった。ハウトマン夫人だけが、椅子の背もたれを握ったまま、動けずにいた。
◇
玄関の広間で、殿下は毛皮の襟巻きを巻き直しながら、振り返った。
「また来るわ。木曜に、ね」
「お待ちしております」
「それから」
殿下は、灰色の目を細めた。閣下が、何か考えているときと同じ目だった。
「あなたに、招待状を送るわね」




