王家のお客様の作法
十一月の残りの木曜も、私は腰に鍵の束を下げて、公爵家へ出かけた。
出がけに玄関の広間を通ると、居間の机の上で、姉の予定表が開いている。木曜の欄には、毎週同じ母の字があった。在宅。
「いってまいります」
「……いってらっしゃい」
居間の戸口から返ってくる母の声は、先週より少しだけ、聞き取りやすくなっていた。私は振り返らずに、ヘッダと馬車に乗った。振り返ったら、母はきっと居間へ引っ込んでしまう。
◇
公爵家の木曜は、冬になっても客が減らなかった。
男爵様はボッケを連れて、暖炉のいちばん近くの敷物を、ボッケのために空けておくようになった。子爵夫人は、窓から遠い柱の陰の椅子を、ご自分で「わたくしの椅子」と呼ぶようになった。
王女殿下がいらっしゃるのは、冬の最初の木曜。そのことは、まだ屋敷の外には知らせていないはずだった。
十一月の最後の木曜、四時の鐘でお客様方を送り出したあとのことだ。
「王宮より、王女殿下の女官の方がお見えでございます」
マウリッツの声が、いつもより硬かった。
客間に入ってきたのは、灰色の絹のドレスの、背筋のまっすぐな夫人だった。年は母より少し上だろうか。手袋を外さないまま、客間をひと回り見渡した。
「王女殿下付きの女官、ハウトマンでございます。冬の最初の木曜の、段取りに伺いました」
ハウトマン夫人は、勧めた椅子には座らなかった。
「殿下は、伯母君のお宅の在宅日にお顔を出される。親しいお家を訪ねるのは、王家の方にも礼にかなったことでございます。ただ、王家の方がお見えになる日には、先に女官が伺って、お迎えの段取りを申し上げる習いになっております」
「承ります」
私が言うと、ハウトマン夫人は、一つずつ指を折るように話し始めた。
「殿下がお見えのあいだ、ほかのお客様には、お引き取りいただきます。殿下には、このお部屋でいちばん良いお椅子を。お茶は、殿下のお付きの者がお持ちしたものを、お付きの者がお淹れします。それから」
ハウトマン夫人の目が、暖炉の前の敷物に落ちた。茶色い毛が、何本か残っていた。
「犬などは、もってのほかでございます」
マウリッツが、手帳に書きつける手を止めた。
「そして、殿下のお帰りは、殿下がお決めになります。殿下がお立ちになるまで、どなたもお先に失礼なさいませんように」
そこまで言って、ハウトマン夫人は、初めて私をまっすぐに見た。私の水色のドレスを、襟元から裾まで。
「失礼ながら。留守番をなさっていたお嬢様が、王家のお客様の何をご存じでいらっしゃるのかしら」
(何も、存じません)
本当に、何も知らなかった。王家の方をお迎えした覚えは、ない。
けれど、木曜のことなら知っている。
「お言葉は、全部伺いました。お返事を申し上げてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「木曜は、来た方を、皆様お迎えする日でございます。先にいらした方に、あとからいらした方のためにお帰りいただくことは、いたしておりません。殿下も、木曜にいらした方のお一人として、お迎えいたします」
ハウトマン夫人の眉が、わずかに上がった。
「お椅子は、殿下のお好みを伺ってから、ご案内いたします。お茶は、この家にいらしたお客様には、この家のお茶をお出ししております。男爵様のボッケは、木曜のお客様ですので、その日もお迎えいたします」
マウリッツの手帳が、また少し強く握られた。
「それから、四時の鐘が鳴りましたら、皆様にお帰りの時刻を申し上げております。殿下にも、そう申し上げます」
客間が、しんとした。
戸口のところで、ヤンが胃のあたりを押さえたのが見えた。
ハウトマン夫人は、しばらく私の顔を見ていた。それから、窓際の椅子のほうへ目を移した。
「閣下は、それでよろしいのでございますか」
「この家の木曜は、この人が預かっている」
閣下は窓の外を見たまま、そう言った。
「私の家の決まりではない。この人の決まりだ。私も、四時に帰れと言われて、十二回帰った」
ハウトマン夫人は、手袋の指先を、一本ずつ引っぱるようにして整えた。
「……殿下に、そう申し上げます」
冷えた声だった。夫人は一礼して、マウリッツの案内で玄関へ出ていった。
◇
扉が閉まると、マウリッツが、長い息をついた。
「お嬢様。王家の方に、お帰りの時刻を申し上げた家は、この王都に一軒もございません」
「では、この家が初めてになりますね」
マウリッツは何か言いかけて、手帳の新しい頁に、何か書き足した。
ヤンが、主人のそばへ寄った。
「旦那様。王女殿下は、四時に帰れと言われて、お帰りになる方でございましょうか」
「さあな」
閣下は、窓から目を離さなかった。ただ、口の端が、かすかにゆるんでいた。
「従妹は、言われたことのないことを言われるのが好きだ」
◇
ローゼンダール家へ戻ると、玄関の広間に、母が立っていた。
手には、誰かのお宅からのお礼状を持っていた。読みかけのまま、ここで私を待っていたらしかった。
「おかえりなさいませ、リーケお嬢様」
ベルトラムがそう言って、私の外套を受け取った。母は、ベルトラムが言い終えるまで黙っていて、それから口を開いた。
「王女殿下が、公爵家へいらっしゃるのですって?」
私は、手袋を外す手を止めた。
屋敷の外には、まだ知らせていないはずのことだった。
「どなたから、お聞きになりました」
「子爵夫人のところの小間使いが、うちのネルに話したそうよ。王宮の女官が、今日、公爵家へ入っていったって」
客間の話は、翌日には王都じゅうを回る。今日のことなら、今夜のうちだ。
母の手の中で、お礼状の端が、少しだけ折れ曲がっていた。




