冬の木曜に
次の木曜の朝、私は、腰に鍵の束を下げて、ローゼンダール家の玄関に立った。
ヘートヴィヒ様からお預かりした鍵は、ヘッダが細い鎖に通してくれた。歩くと、ドレスの襞の陰で、小さく鳴った。
「いってまいります」
居間の戸口から、母が顔を出した。
「……いってらっしゃい」
先週と同じ、小さな声だった。けれど今度は、母はすぐには居間へ戻らなかった。私の腰の鍵の束に、目を留めていた。
「それは」
「公爵家の鍵です。ヘートヴィヒ様が、冬のあいだ、お預けくださいました」
母の目は、しばらく鍵の上に留まっていた。母は黙ったまま、居間へ戻っていった。
開いた扉の向こうで、居間の机の上に、姉の予定表が開いたままになっていた。今週の木曜の欄に、母の字で、一言だけ書いてあった。
在宅。
(お母様が、在宅、と書いた)
誰か来るといいけれど、と思った。それから、来なくても、お母様はたぶん、あの椅子に座って待つのだろう。
◇
公爵家の客間には、もう暖炉の火が入っていた。マウリッツが、私の腰の鍵を見て、深く頭を下げた。
「お待ちしておりました、お嬢様」
お待ちしておりました、と言われるのにも、少しずつ慣れてきた。
二時の鐘が鳴って、呼び鈴が鳴った。
男爵が、今日はボッケを連れていらした。子爵夫人が、柱の陰の椅子のことを冗談めかしてお尋ねになり、私は、お屋敷でいちばん日の当たらない椅子へご案内した。南の生まれの若い夫人は、同じ浜の殿方のご家族と一緒にいらした。
それから、少し遅れて、侯爵家のティネケ様がいらした。今日は、年配の侍女と、もう一人。近衛の礼装ではない、私服のヨーリス様だった。
「あの……母が、行っていらっしゃいと」
ティネケ様は、扇の陰でそう言った。ヨーリス様が、先週の火曜、侯爵家の在宅日に、作法どおり訪ねていったのだという。侯爵夫人は、後見役を降りてから、娘の行き先をあまりうるさくお決めにならなくなったらしい。
「ようこそ、お二人とも」
ヨーリス様は、私の前で背筋を伸ばして、深く礼をした。
「披露の夜のお席の件、恐縮です。それから、春にお借りした本も。あの本がなければ、侯爵家の門を叩く勇気は出ませんでした」
「どんなご本でしたかしら」
「在宅日の作法の本です」
ティネケ様が、扇の陰で噴き出した。それから、私に小声で付け加えた。
「それから、あの……閣下も、同じ火曜に、母を訪ねていらっしゃいました。招待状に、いつでもお越しくださいませ、と書いてあったから、と。母は、お茶を一杯お出しするあいだ、ひと言も出てこなかったそうです」
窓際の端の椅子の閣下は、知らない顔で窓の外を見ていた。
お二人を窓際の明るいお席へご案内すると、閣下の口元が、今度はかすかにゆるんだ。
◇
四時の鐘が鳴って、お客様方が帰ったあと、閣下が封書を一つ、卓の上に置いた。
王家の紋の封蝋だった。
「王女殿下からだ。冬の最初の木曜に、この家の在宅日に伺いたい、と」
私は、手紙を読んだ。几帳面な字で、お噂の、留守番の方にお目にかかりたい、と書いてあった。
(王女殿下)
春の、五月の最初の木曜。姉を急な茶会に招いて、父に閣下との約束を破らせた方だ。
あの日、閣下は小客間で、君は、今日も家にいた、とおっしゃった。
「断ろうか」
閣下が聞いた。
「いいえ」
私は、手紙を畳んで、閣下にお返しした。
「来た方は、私がお迎えします。王女殿下でも」
閣下は、少しだけ目を細めた。
「そう言うと思った」
「それに」
私は、腰の鍵の束に手を置いた。
「この冬、この家の木曜は、私がお預かりしております」
閣下は、今度は声を立てて笑った。
笑いがおさまってから、閣下は上着の隠しから、もう一通、手紙を出した。こちらは、見慣れた父の字だった。
「婚礼の日取りを、伯爵に手紙で伝えた。その返事だ」
春の最初の木曜、確かに承りました。当日は、必ず参ります。
最後の一行を、私は二度読んだ。いつでもお越しください、とは、どこにも書いていなかった。
「父が、必ず、と書いたのを、私は初めて見ました」
「私もだ」
閣下は少しも笑わずにそう答えて、父の手紙を丁寧に畳んだ。
窓の外は、もう夕暮れが早くなっていた。
◇
ローゼンダール家へ戻ると、玄関の広間で、母が私を待っていた。
「今日は、男爵様が、帰り道に寄ってくださったわ」
母は、少しだけ早口で言った。
「ボッケが、うちの門の前から動かなくなったのですって。それで、お茶を一杯だけ。……濃いめに淹れたわ。焼き菓子の端も、少し」
「ありがとうございます、お母様」
「お礼を言われることではないわ」
母はそう言って、居間へ戻りかけて、足を止めた。
「日が暮れてきたので、お帰りの時刻ですと申し上げたら、男爵様、笑っていらしたわ。また奥様に言われた、と」
母の声は、怒っているようにも、笑っているようにも聞こえた。
冬の最初の木曜まで、木曜は、あといくつもなかった。




