玄関の明かり
公爵家の馬車がローゼンダール家の門に着いたのは、空がうっすら白み始めたころだった。
閣下は、今夜も玄関の段の下まで送ってくださった。
「木曜に」
「はい。木曜に」
閣下の馬車が角を曲がるまで、私は段の上に立っていた。見送るのは、いつもの私の役目だ。
玄関には、明かりがついていた。
扉を開けたのは、ベルトラムだった。こんな時刻なのに、いつもの黒い上着をきちんと着ていた。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
「ただいま、ベルトラム。起きていてくれたの」
「お嬢様のお帰りが、まだでございましたので」
ベルトラムは、それが執事の務めだという顔で答えた。
玄関の広間に入って、私は足を止めた。
壁際の椅子に、母が座っていた。外套を脱いだだけの、侯爵家へ行ったときのドレスのままで。膝の上で、手袋を握っていた。
母は、私を見て、立ち上がった。
何か言いかけた。唇が、一度だけ、形を作りかけた。
「……遅かったのね」
「はい。最後のお客様をお見送りしてまいりましたので」
「そう」
母の返事は、それだけだった。母は手袋を握ったまま、階段のほうへ歩いていった。階段を少し上がったところで、母は振り返らずに言った。
「……お客様は、たくさんいらしたの」
「はい。皆様、最後までいらっしゃいました」
母の背中が、わずかに丸まったように見えた。母は黙ったまま、階段の上へ消えた。
ヘッダが、私の外套を受け取って、衣装部屋へ運んでいった。扉を閉めたベルトラムが、低い声で言った。
「奥様は、侯爵家からお帰りになってから、ずっとあちらにお座りでした」
ベルトラムは、それだけ言って一礼した。
(お母様が、玄関で、誰かの帰りを待っていた)
私の帰りを、なのかどうかは、確かめられなかった。確かめないでおこう、と思った。
◇
朝食の席は、静かだった。
父だけが、昨夜の話をしていた。公爵家の広間の燭台の数、母君様と同じお茶をいただいたこと、閣下のご挨拶が短くて立派だったこと。
「いや、私もつい、いつもの調子で、いつでもお越しを、と言いかけてな。皆さん、ずいぶん静かに聞いておられた」
父は、それを良い話だと思っているようだった。
母は、パンを小さくちぎったまま、口へ運ばなかった。姉は、紅茶のカップを抱えるようにして、銀の盆を見つめていた。姉の盆には、封筒が一つも載っていなかった。
◇
昼を回ったころ、ファン・ホーフ子爵夫人から手紙が届いた。
昨夜のお礼の言葉のあとに、子爵夫人らしい細かな字で、侯爵家の夜会の顛末が書いてあった。
異国の歌い手は、予定の半分の曲で、一座ごと帰ってしまったこと。侯爵夫人は、今季の若いお嬢様方の後見役を、ご自分から降りると言い出したらしいこと。後見をお願いしていた家々が、どこもほっとしていること。
それから、追伸が一行。
王都の客間では、また一つ決まり文句が増えましてよ。木曜は公爵家へ、いつでも、ではなく。
私は手紙を畳んで、膝の上に置いた。
(いつでも、ではなく)
閣下のご挨拶が、もう王都じゅうの客間を回っているらしい。
◇
夕方には、もう一通、短い手紙が届いた。
淡い黄色の封筒で、差出人はティネケ様だった。昨夜のお礼が丁寧に書いてあり、最後の行に、こうあった。
ヨーリス様が、侯爵家の在宅日の火曜に、母を訪ねてくださるそうです。在宅日の作法どおりに。
私は、その一行を、もう一度読んだ。
(在宅日の作法どおりに)
誰かが、作法どおりに、木曜に誰かの家を訪ねる。そうやって始まることがあるのを、私は知っている。
手紙を畳んでから、私は図書室へ行った。ヨーリス様が公爵家の在宅日に返してくださった本を、まだ棚に戻していなかった。
その本を、空いていた場所に差し込んだ。指を離すと、棚はまた、端から端まで埋まった。
◇
次の木曜、ローゼンダール家の家族は、家にいた。
母も、姉も、父も。誰も出かける支度をしていなかった。私だけが、公爵家へ出かける支度をした。
玄関で「いってまいります」と言うと、母が居間の戸口に立っていた。
「……いってらっしゃい」
母が、そう言った。小さな声だった。
私は、聞き間違えたかと思った。振り返ると、母はもう居間の中へ戻っていた。
その日の公爵家の在宅日で、四時の鐘のあと、閣下が私に言った。
「母が、話があると言っている。大事な話だそうだ」




