空いた椅子の前で【マルグリート視点】
拍手は、大きければ大きいほどいい。
わたくしは、竪琴を弾き終えたあと、いつも拍手の大きさを耳で量ってきた。広間の後ろの壁まで届く拍手か、前の数列で止まる拍手か。顔を上げれば、こちらを見ている目の数も分かる。社交の季節に出るずっと前から、そうしてきた。
今夜の侯爵家の大広間には、金の脚の椅子が、百は並んでいた。
埋まっていたのは、前の数列だけだった。
◇
公爵家の披露をご挨拶だけで抜けて、お母様と馬車で川を渡った。侯爵家の門の灯りは、見事だった。門の前に馬車が何台も並んでいるのを見て、わたくしは胸をなで下ろした。
並んでいたのは、異国の歌い手の一座の荷馬車だった。
大広間に入ると、楽師と歌い手と、その付き人たちが、壁際に肩を並べていた。客の席は、前のほうから少しずつ埋まっているだけだった。
「まあ、皆さま、まだいらしていないのね」
お母様が、扇の陰で言った。いつもより、声が高かった。
「公爵家にご挨拶だけして、こちらへ回る方が多いはずよ。もう少ししたら」
侯爵夫人は、広間の真ん中で、笑顔で客を迎えていた。濃い緑のドレスに、大きな真珠の首飾り。わたくしたちを見つけると、笑顔のまま近づいてきた。
「伯爵夫人、マルグリート様。よくいらしてくださったわ。……ティネケを見なかったかしら。少し気分が悪いと言って、さっき下がったきりなの」
「いいえ」
侯爵夫人は、笑顔のまま、扉のほうを見た。わたくしたちと話しているあいだに、三度、扉のほうを見た。
◇
時計が、夜会の始まる時刻を過ぎた。
扉は、開かなかった。
しばらくして開いた扉から入ってきたのは、給仕だった。
前の列の若いお嬢様たちが、扇の陰でひそひそと話していた。
「公爵家の披露は、どんなかしら」
「母が、ご挨拶だけしてこちらへ回るって言っていたのに。まだ来ないの」
「あちらのほうが、楽しいのかもしれないわね」
わたくしの耳には、そういう話ばかりがよく聞こえた。
異国の歌い手が、一曲歌った。声は素晴らしかった。拍手は、前の数列から起きて、そこで止まった。後ろの空いた椅子が、音を吸い込んでいるようだった。
「マルグリート様。どうぞ」
侯爵夫人に促されて、わたくしは竪琴の前に座った。
この夜会のために、練習してきた曲だった。公爵閣下がいらっしゃるかもしれないと思って、春に何度も弾いた曲。誕生日の夜会でも弾いた曲。
弦に指を置いたとき、ふと、誕生日の夜会がよみがえった。
あの晩、わたくしは大広間の真ん中にいて、あの子は小客間にいた。家にいるのに、留守番をさせられて。今夜は、あの子が公爵家の広間の真ん中にいて、わたくしが、この空いた広間にいる。
そんなことを思い出す自分が、腹立たしかった。
顔を上げた。
こちらを見ている目を、数えようとした。前の列の、年配のご婦人が三人。その後ろの、居眠りしかけている殿方。お母様。侯爵夫人。壁際の楽師たち。
数えるのを、やめた。数えるほども、なかった。
弾き終えると、拍手が来た。小さかった。お母様が、いちばん大きく手を叩いていた。
◇
夜が更けると、侯爵夫人の笑顔が、少しずつ固くなっていった。
遅れて着いた客が一人、侯爵夫人に挨拶をした。公爵家の前を通ってきたが、門のところには、まだ馬車が列を作っていた、と。
侯爵夫人の扇が、音を立てて閉じた。
「伯爵夫人」
侯爵夫人は、お母様のほうを向いた。声が、冷たかった。
「公爵家の披露の夜に、こちらへいらしたのは、あなたとお嬢様くらいね。ご家族の披露でしょうに」
お母様は、何か言いかけて、黙った。
侯爵夫人は、そばにいた従僕を呼んだ。
「ティネケは、どこ。部屋で休んでいるのでしょうね」
「それが、奥様。お嬢様の馬車は、先ほど、公爵家のほうへ」
侯爵夫人の顔から、笑顔が、すっと消えた。
わたくしは、竪琴の前の椅子に座ったまま、膝の上で手を握っていた。
(あの子のせいよ)
言いかけて、やめた。
あの子は、何もしていない。公爵家の玄関で膝を折って、いってらっしゃいませ、と言っただけだ。わたくしたちが出かけていくのを、いつものように見送っただけだ。
それなのに、どうして、皆さまがあちらにいるのだろう。
(わたくしは、何も悪くないでしょう?)
今夜は、いくら自分に言い聞かせても、少しも効かなかった。
◇
馬車に揺られているあいだ、お母様は、窓の外の暗がりから目を離さなかった。川を渡るころになって、ようやく口を開いた。
「来週の木曜は、家にいましょう」
わたくしは、答えなかった。
家にいても誰も来なかった木曜のことを、お母様も覚えているはずだった。




